玉林寺(読み)ぎよくりんじ

日本歴史地名大系 「玉林寺」の解説

玉林寺
ぎよくりんじ

[現在地名]大館市大町

旧大館城下町の西南部、てら町の一画にある。曹洞宗鳳凰山と号し、本尊釈迦牟尼仏中世、この地方を支配した浅利氏の菩提寺。天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「御位拝所、寺領七百刈、御菩提所、玉林寺、右ハ十狐村和田ニ旧跡也」とある。また、浅利則頼は久保田くぼた(現秋田市)松原の補陀まつばらのほだ寺九世草庵守瑞に帰依し、大永年間(一五二一―二八)、現市街地東部の鳳凰ほうおう山に建立したとの伝承も残る。慶長年間(一五九六―一六一五)大館町に移転。則頼・勝頼・頼平三代の位牌を残し、「明庵珠光大居士天文十九甲子六月十六日浅利与一則頼十狐村にて死」「機菴勝金大居士天正十辛已五月十七日浅利民部勝頼長岡にて死去」「宗清大居士慶長三戊戌正月八日浅利左京頼平大坂にて死去」とある。

玉林寺
ぎよくりんじ

[現在地名]吹田市出口町

曹洞宗、山号金剛山、本尊釈迦如来。元禄五年(一六九二)の淀藩領寺社吟味帳写(奥田家文書)によれば曹洞宗吹田村護国ごこく寺末で、由緒を「文安二乙丑年守勤と申住持開基、中興慶長九甲辰年梅光と申住持再興仕候、当寺開山守勤細川右馬頭満国殿御帰依被成、同村内之内并丹波之国舟井郡ニ寺領御寄付、数ケ年寺納仕候、其後御息細川右京大夫持春殿御代天正四丙子年、以先例之旨当寺知行不可有相違御証文被成下」と記す。

玉林寺
ぎよくりんじ

[現在地名]大和町大字久池井字出羽

川上かわかみ扇状地の扇頂に近く、南面した山地の傾斜地に建立されている。山号は太陽山。曹洞宗で薬師如来を本尊とし、山門に十六羅漢像を配していた。

永徳二年(一三八二)鑰尼かぎあま季高が寺地を寄進して建立したもので、開山は無著。至徳三年(一三八六)今川了俊が季高寄進の田地を安堵する安堵状を出しており、明徳二年(一三九一)には季高が再び巨勢こせ庄小太郎丸名の田地一五町を安堵している。寺領は六〇余町に及んだとも伝えられるが、天文一一年(一五四二)の後奈良天皇の綸旨写が残されており、勅願寺とされ、「勅賜玉林禅寺」「祈祷」の勅額が残る。

玉林寺
ぎよくりんじ

[現在地名]鴨島町山路

山路さんじの南西部、てら谷の奥まった所にある。慈眼山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は十一面観音。寺伝によると一二世紀末に麻殖おえ保司となった平康頼の開基で、本尊は康頼が鹿ヶ谷事件で鬼界きかいヶ島(現鹿児島県三島村の硫黄島とされる)に配流されていたとき、後白河法皇から下賜されたものとする。「阿波志」などによると康頼は初め森藤もりとう山中に当寺および鬼界寺(鬼界山補陀洛寺とも)の二ヵ寺を置き、のち両寺は合して一山となったと伝えられ、天正年間(一五七三―九二)戦火にあい、一山一二子院ことごとく廃絶したという。

玉林寺
ぎよくりんじ

[現在地名]小牧市村中 森本

瑠璃光山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。初めは小牧山西南麓にあったが、元和九年(一六二三)小牧宿の東遷とともに郷士丹羽又兵衛の発意で、この寺を二分し、一つは小牧村に、一つを村中むらなか村に置いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の玉林寺の言及

【鴨島[町]】より

…東部の牛島地区には工業団地がある。四国八十八ヵ所11番札所藤井寺,平康頼創建の玉林寺,鴨島公園,異常水温(夏季10℃以下,冬季20℃以上)の湧水で知られる吉野川遊園地がある。JR徳島線,国道192号線,国道318号線が通じる。…

※「玉林寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」