六条村(読み)ろくじようむら

日本歴史地名大系 「六条村」の解説

六条村
ろくじようむら

[現在地名]岐阜市六条東ろくじようひがし一―二丁目・六条北ろくじようきた二―四丁目・宇佐東町うさひがしまち六条福寿町ろくじようふくじゆちよう六条南ろくじようみなみ一―三丁目・六条片田ろくじようかただ一―二丁目・六条江東ろくじようえひがし一―三丁目・六条大溝ろくじようおおみぞ一―四丁目・宇佐南うさみなみ一―三丁目・六条・六条北

せい村の南に位置し、東は下加納しもかのう村。集落は村北部から東へ延び、荒田あらた川を南限とする。村名は条里の遺称とされ、中世には平田ひらた庄の内に六条郷が成立していた。同郷は平田庄の中核をなしたと考えられる。建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(島田文書)に郷名がみえ、後白河院御所六条殿で使用するため、正月の元三雑事として御簾・御座、節器物として白瓷鉢・酒瓶子・酢瓶、春秋の彼岸に布施として使用する布・移花、毎月一三日に届ける廻御菜のほか、八月に仕丁一人、七月下半期の西洞院大路に面した門のうち北側の門を守る兵士を出していた。しかし節器物・仕丁・移花は当時すでに不納になっており、ほどなく元三雑事の御簾もほとんど納入しなくなった。

六条村
ろくじようむら

[現在地名]高松市六条町

西本山にしもとやま村の南に位置し、高松平野のやや東寄り、春日かすが川とその支流ふる川の流域平地に立地。地名は条里にちなみ、山田郡の東端を一条としてそこから六条にあたる地と考えられている。当地下り原から縄文時代の泥炭層が発見され、隣接するはやし町の坊城ぼうじよう遺跡から自然流木が、縄文木製農具とともに出土するなど、幅八〇メートルにも及ぶ大川が流れていたと推定される。戦国時代由良兼光が六条城に拠ったという(全讃史)

六条村
ろくじようむら

[現在地名]中主町六条

吉地よしじ村の北、野洲川右岸平地に立地。八之坪はちのつぼ九ッ野ここのっのの古代条里の数詞坪地名が残る。文明九年(一四七七)八月の紀年のある木造慈恵大師坐像(延暦寺蔵)銘に「兵主郷六条村法定寺」とみえる。元亀三年(一五七二)三月一九日付の金森かねがもり(現守山市)の一向一揆に荷担しないことを誓約した起請文(水木文書)に「六条村」の二名が署名。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「六条」とみえ、高七五五石余。

六条村
ろくじようむら

[現在地名]福井市上六条かみろくじよう町・下六条しもろくじよう

足羽川文殊もんじゆ山系との間の平野部に位置し、北は足羽川沿いの小稲津こいなづ村、南は莇生田あぞだ村・天王てんのう村。当村を中心とする一帯には道路や水路に条里制の遺構が明確に認められる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高一九三六・六三五石。正保郷帳以降上・下の二村に分れ、上六条村は田方六〇七石余・畠方七三石余、下六条村は田方一千二二八石余・畠方二七石余。

六条村
ろくじようむら

[現在地名]奈良市六条町・西にしきよう

五条ごじよう村南方に所在。薬師寺所在地。慶長郷帳の村高一〇四四・〇八石。うち七四四・〇八石は幕府領(代官大久保長安)、三〇〇石は薬師寺領。寛永郷帳では薬師寺領の地を「東堂院村」と注記している。幕府領は元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、廃藩置県に至る。

六条村
ろくじようむら

[現在地名]寿都郡寿都町字六条町

明治初年(同二年八月―同六年の間)より同一四年(一八八一)まで存続した村。岩崎いわさき村の南にあり、東部は寿都湾に面する。近世よりみえ、明治四年の海岸通調では「六条、十七戸」とある(北海紀行)。同六年の「後志国地誌提要」に六条村とみえ、戸数一八(うち寺一)・人口一〇六(うち僧一)、寄留戸数五・人口一九で、稲生社(天保三年建立)が祀られ、浄土宗有珠うす善光寺(現伊達市)末の地蔵庵は一八五六年(安政三年)の創立という。

六条村
ろくじようむら

[現在地名]天理市南六条みなみろくじよう

なか村東方に所在。慶長郷帳の村高五九一・九一石、山口勘兵衛組の所領。寛永一三年(一六三六)以降柳生藩(柳生宗矩)領。集落東北の杵築きつき神社境内の釈迦堂の釈迦如来坐像には「施主金蔵院尭範 六条堂本尊釈迦如来 天文十三甲辰年 仏師宿院番匠源次」の胎内墨書銘がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報