柳生宗矩(読み)やぎゅうむねのり

精選版 日本国語大辞典 「柳生宗矩」の意味・読み・例文・類語

やぎゅう‐むねのり【柳生宗矩】

安土桃山時代から江戸初期の武将、剣術家。大和国(奈良県)の人。但馬藩主。宗厳の五男。宗厳に柳生新陰流を学ぶ。徳川家康の兵法師範役となり、関ケ原の戦の際、上方勢の後方攪乱に活躍した。のち二代将軍秀忠、三代将軍家光の兵法師範もつとめた。著に「兵法家伝書」。元亀二~正保三年(一五七一━一六四六

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デジタル大辞泉 「柳生宗矩」の意味・読み・例文・類語

やぎゅう‐むねのり〔やぎふ‐〕【柳生宗矩】

[1571~1646]江戸初期の剣術家。大和の人。宗厳の五男。父とともに徳川家康に仕え、徳川秀忠新陰流を伝授。徳川家光の信頼があつく、寛永9年(1632)総目付となり、諸大名の監視に当たった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳生宗矩」の意味・わかりやすい解説

柳生宗矩
やぎゅうむねのり
(1571―1646)

大和(やまと)国(奈良県)柳生藩の祖。江戸初期の代表的な剣術家として知られ、新陰(しんかげ)流江戸柳生家の初代。柳生石舟斎宗巌(せきしゅうさいむねよし)の五男で、初名新左衛門、通称又右衛門(またえもん)、のち但馬守(たじまのかみ)。幼少のころから父宗巌に剣の手ほどきを受けて、その英才を表し、1594年(文禄3)23歳のとき、徳川家康の招きを受けた父に伴われて、京都西郊鷹峯(たかがみね)の陣屋において新陰流を披露し、その技を嘉賞(かしょう)され旗本の士に採用された。関ヶ原の役には石田方の後方牽制(けんせい)の特命を帯して大和地方の豪族工作にあたり、戦後その功によって柳生の旧領2000石を回復し、さらに将軍世子秀忠(ひでただ)の兵法指南を命ぜられて1000石を加増され、やがて新陰柳生流が将軍家の御流儀(ごりゅうぎ)として長く用いられる地歩を築いた。1614年(慶長19)の大坂冬の陣には徳川方の嚮導(きょうどう)役を勤め、続く夏の陣後には千姫(せんひめ)救出に絡む坂崎出羽守成政(さかざきでわのかみなりまさ)の反抗事件を収拾することに成功し、また外様(とざま)大名の伊達政宗(だてまさむね)をはじめ、細川、鍋島(なべしま)、毛利(もうり)などの諸家と親交を結ぶなど、その政治的手腕も高く評価されるようになった。

 1621年(元和7)宗矩50歳、将軍世子家光(いえみつ)の兵法師範を託され、その将軍就任後も引き続き厚い信任を受け、1629年(寛永6)には従(じゅ)五位下但馬守に任じ、さらに加増を受けて高6000石の大身に栄進し、将軍側近の御使番組頭(おつかいばんぐみがしら)のシンボルである「五の字(ごのじ)」の旗指物(はたさしもの)の使用を許された。1632年には総目付(そうめつけ)(後の大目付)に補せられて、諸大名の監察役となった。一方、これを機に鍋島元茂(もとしげ)、細川忠利(ただとし)ら大名門人の協力を得て、新陰柳生の伝授体系の確立を図り、紫衣(しえ)事件で羽州上ノ山(うしゅうかみのやま)に謫居(たっきょ)中の僧沢庵(たくあん)の赦免に尽力し、許されて江戸へ帰着した沢庵の助力を得て、『兵法家伝書(へいほうかでんしょ)』(3巻)を完成させた。その後も御伽衆(おとぎしゅう)として家光の側近にあり、1636年には加増されて総高1万石を領し、大名の列に加えられ、さらに1万2500石に上った。正保(しょうほう)3年3月死去、翌4月破格の従四位下を追贈された。

[渡邉一郎]

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朝日日本歴史人物事典 「柳生宗矩」の解説

柳生宗矩

没年:正保3.3.26(1646.5.11)
生年:元亀2(1571)
江戸前期の剣術家。徳川秀忠,家光の兵法師範を勤め,治世を補佐して江戸柳生家の開祖となった。宗厳の5男として大和国(奈良県)添上郡柳生に生まれる。名は又右衛門。父の推挙によって徳川家康の側近となり,慶長5(1600)年の関ケ原の戦に従軍して認められ,翌6年から秀忠の兵法師範に任ぜられた。家光の信任はことのほか厚く,寛永6(1629)年,従五位下但馬守に任ぜられ,同9年には徳川幕府の初代惣目付(のちの大目付)として政治の表舞台に躍り出た。同13年には加増されて1万石を領し,柳生藩主となる。父宗厳が上泉信綱から相伝し,改良した柳生家の新陰流は,宗矩に至って将軍家のいわゆる「御流儀」となり,その公開を禁じられた。幕府の中枢に深く関与したであろう宗矩には,兵法者の実力を示す事績はほとんど伝わっていない。強いて挙げれば,大坂夏の陣で,将軍秀忠を急襲した木村重成の城兵7人を切り伏せたといったたぐいのものである。しかし,寛永9年に家伝として書きおろされ,現在も広く読まれている彼の『兵法家伝書』は,疑いなく上泉信綱直系の新陰流を体現する者の著述であって,武術伝書として希有の水準を示す。その内容は,定説として語られているほど禅臭のまさった,観念的なものではなく,むしろ信綱の刀法の要諦,真意を具体的かつ忠実に述べているといえる。宗矩が開いた江戸柳生家は,第4代宗在に子がなく血統が絶え,以後養子相続を繰り返すこととなって,剣技の相伝は明治維新までもっぱら門人の手によって続けられた。<参考文献>今村嘉雄他編『日本武道全集』1巻,筑波大学武道文化研究会編『新陰流伝書集』上,渡辺忠敏『新陰流兵法太刀伝』

(前田英樹)

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改訂新版 世界大百科事典 「柳生宗矩」の意味・わかりやすい解説

柳生宗矩 (やぎゅうむねのり)
生没年:1571-1646(元亀2-正保3)

江戸初期の兵法家。新陰流剣術の達人で徳川将軍兵法師範。正式には柳生但馬守宗矩,通称又右衛門。父は柳生石舟斎宗厳(むねよし)(1527-1606)。大和国(奈良県)柳生庄に生まれる。父石舟斎は上泉伊勢守から新陰流の印可を伝授され,柳生に引きこもり柳生新陰流兵法のくふうと完成に精進した(柳生流)。徳川家康の招きを老齢のゆえをもって辞した石舟斎は,五男宗矩を幕下に勧めた。宗矩は江戸で徳川家の兵法師範となり,2代将軍秀忠,3代家光に印可を与えた。とくに家光には剣技上ばかりでなく,政治上でも意見を具申し信頼を受ける立場となった。一方,禅僧沢庵とも親交があり,柳生新陰流兵法の理論体系の完成に大いに教えを受けた。家光,沢庵,宗矩3者の身分を超えた人間関係は,江戸幕藩体制の完成に大きな力となったといえよう。1636年(寛永13)宗矩は1万石(のち1万2500石)の大名に列せられた。兵法書として《兵法家伝書》3巻があり,近世剣術界に大きな影響を与えた。
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百科事典マイペディア 「柳生宗矩」の意味・わかりやすい解説

柳生宗矩【やぎゅうむねのり】

江戸初期の剣客。但馬(たじま)守,通称又右衛門。徳川家康に仕え関ヶ原の戦大坂の陣に戦功。父宗厳(むねよし)(石舟斎(せきしゅうさい))から継承した剣術,新陰流の達人で秀忠・家光にも教授。禅僧沢庵(たくあん)とも交わり,柳生新陰流兵法の理論を体系化した。のち大目付となり,1636年には大名に列して大和(やまと)柳生藩主。
→関連項目柳生氏柳生十兵衛柳生宗冬柳生流

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「柳生宗矩」の意味・わかりやすい解説

柳生宗矩
やぎゅうむねのり

[生]元亀2(1571).大和,柳生
[没]正保3(1646).3.26. 江戸
江戸時代初期の剣術家。大和柳生藩主。宗厳 (むねよし) の第8子。母は興原遠江守助豊の娘。初名は新左衛門,又右衛門。文禄3 (1594) 年徳川家康に召されて仕えた。関ヶ原の戦い後,旧領柳生荘を与えられ 2000石を領し,将軍秀忠,家光に新陰流の剣を教授した。大坂の陣でも活躍し,寛永6 (1629) 年3月従五位下但馬守に任じられ,3000石を与えられた。同年大目付となり家光の厚い信頼を得た。同 13年1万石を新封され,大和柳生の大名となり,のち 2500石を加封された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳生宗矩」の解説

柳生宗矩 やぎゅう-むねのり

1571-1646 江戸時代前期の剣術家,大名。
元亀(げんき)2年生まれ。柳生宗厳(むねよし)の5男。新陰流の技をみとめられて徳川家康につかえる。2代将軍秀忠,3代将軍家光の兵法師範となる。以後柳生家が師範役を世襲。寛永9年初代の大目付,13年大和(奈良県)柳生藩主柳生家初代となった。1万石,のち加増され1万2500石。正保(しょうほ)3年3月26日死去。76歳。通称は又右衛門。但馬守(たじまのかみ)。著作に「兵法家伝書」。
【格言など】我人に勝つ道は知らず,我に勝つ道を知りたり

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「柳生宗矩」の解説

柳生宗矩
やぎゅうむねのり

1571~1646.3.26

大和国柳生藩主。兵法家。但馬守。同国柳生荘に兵法家柳生宗厳(むねよし)の第8子として生まれる。1594年(文禄3)徳川氏に仕え,1600年(慶長5)関ケ原の戦に従軍。戦後柳生荘2000石を与えられた。江戸幕府2代将軍徳川秀忠・3代家光に新陰流を伝授し,「兵法家伝書」の著作がある。32年(寛永9)大目付に任じられ,36年には1万石の大名となった。のち加増され1万2500石。

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世界大百科事典(旧版)内の柳生宗矩の言及

【小野忠明】より

…24~25歳のころ伊藤一刀斎の弟子となり一刀流の道統を継いだ。1593年(文禄2),見込まれて徳川家康の家人となり,柳生宗矩(むねのり)とともに秀忠の師範となって小野姓に改めた。直情径行,妥協や要領のよさをきらった忠明は,いわば処世術に欠け,対人関係で衝突を起こすことが少なくなかった。…

【柳生】より

…現在,柳生町の山沿いの道のかたわらに正長の土一揆の際の柳生徳政碑(史)があり,神戸四ヵ郷の債務破棄を明記した文言が残る。新陰流の剣法で知られる柳生氏は当地の土豪で,将軍徳川秀忠,家光の兵法師範をつとめた柳生宗矩は1636年(寛永13)大名に列し,柳生の正木坂に陣屋を置いた。かつての柳生氏の居城跡に宗矩が創建したという臨済宗芳徳寺には,柳生氏一族の墓80余基が並ぶ。…

【柳生氏】より

…大和国の近世大名。徳川将軍家剣術師範として知られる。平安時代,関白藤原頼通が春日神社に神供料所として寄進した神戸四ヵ郷の一つの小楊生郷(のち柳生村)に代官として菅原永珍(ながよし)が入部したのに始まるというが,戦国時代に春日神戸代官として美作守家厳(いえよし)があり,その子の新左衛門尉宗厳(石舟斎)が柳生新陰流を起こして自立した。松永久秀に属したため筒井順慶に追われて閉居したが,1594年(文禄3)徳川家康に召されて剣法を伝授したのに始まり,1600年(慶長5)関ヶ原の戦には嗣子の宗矩(むねのり)とともに功をたて,宗矩は秀忠,家光の剣術師範となり,さらに大目付に起用され1636年(寛永13)1万石(1万2500石)の大名に列し但馬守を称した。…

【柳生流】より

…新陰流の祖上泉伊勢守秀綱(上泉秀綱)から印可をうけた柳生石舟斎宗厳(むねよし)(1527‐1606)が流祖といえる。宗厳の五男但馬守宗矩(むねのり)(柳生宗矩)が徳川将軍の兵法師範として江戸柳生流の祖となり,宗厳の長男厳勝(よしかつ)の次男兵庫助利厳(としよし)(1579‐1650)が尾張の徳川家に仕えて尾張柳生流の祖となった。二つの流系は近代まで続き,江戸柳生の方は剣術流儀としては絶えたが,尾張柳生は現当主に至るまで,柳生新陰流の技法を伝承している。…

※「柳生宗矩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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