野洲郡(読み)やすぐん

日本歴史地名大系 「野洲郡」の解説

野洲郡
やすぐん

面積:六一・三七平方キロ
野洲やす町・中主ちゆうず

県南部、琵琶湖最狭部の東岸に位置する。北東は近江八幡市、東は蒲生がもう竜王りゆうおう町・甲賀郡甲西こうせい町、南は栗太くりた栗東りつとう町、西は守山市に接し、北西辺は琵琶湖。南東部の鏡山かがみやま丘陵や三上みかみ山など山地を除けば、北西流する野洲川と日野川に挟まれた扇状地性の平坦な沖積平野に、肥沃な水田地帯が広がっている。山地内から流れ出る家棟やなむね川が祇王井ぎおうい川などを集めながら平野部を北西流し、琵琶湖に注いでいる。山地部北方をほぼ旧中山道(古代東山道)に沿う国道八号が北東から南西へ走り、野洲町行畑ゆきはた付近で北東に旧朝鮮人街道が分れている。かつての郡域は日野川に沿った現近江八幡市西端北里きたざと地区と現守山市の南東端を除く大部分に相当し、東は日野川の流路、西は野洲川旧本流と推定されるさかい川に挟まれていた。

〔原始・古代〕

郡域の大部分は野洲川河口部の低地にあたるため、縄文時代人にとっては適した環境ではなかったとみえ、市三宅東いちみやけひがし遺跡(野洲町)で縄文時代後期の集落の立地が推定されるだけで、ほとんど集落は認められない。稲作が伝わるとともに様相は一変し、大規模な水田跡を検出した服部はつとり遺跡(守山市)、玉作工人の集落である市三宅東遺跡、大岩山おおいわやま丘陵部に埋納された二四口の銅鐸など、野洲川がもたらした肥沃な沖積地を舞台に高い農耕文化が生み出された。豊かな経済力と文化は古墳時代にも引継がれ、富波とば古墳・古富波山ことばやま古墳から天王山てんのうやま古墳・亀塚かめづか古墳(以上野洲町)を経て、六世紀まで連綿と多くの首長墓が築かれることになる。「古事記」景行天皇段にみえる近淡海安国造という大和王権の近江地方支配をも支えた巨大豪族が野洲の地に出現するのも、三上山に三上社(現野洲町御上神社)が早くに創建されるのもこうした背景によるものだろう。同社が祀る天之御影命の女と婚姻を結んだ日子坐王は近江の有力豪族の安直氏・和邇氏・息長氏の祖先をつなぐ存在であるともいい、神話伝承の世界のこととはいえ、当郡または三上山の象徴的な意味がうかがえる。三上社と同じく「延喜式」神名帳に記載される兵主ひようず(現中主町)は中国の天地八神のうち兵主を祀るもので渡来人がもたらした信仰と考えられ、渡来系氏族の居住を示唆する。

郡名の初出は「日本書紀」持統天皇七年(六九三)一一月一四日条で、「近江国の益須郡」に湧いた醴泉にかかわる記事である。この時期には郡でなく評と記されるべきで、また立評されていた可能性は高いもののその時期は確認できないので、天平五年(七三三)の山背国愛宕郡計帳(正倉院文書)にみえる「夜珠郡」が早い時期の史料となるか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報