伏見庄(読み)ふしみのしよう

日本歴史地名大系 「伏見庄」の解説

伏見庄
ふしみのしよう

藤原氏の領地としてあった伏見の地に、藤原頼通の第三子橘俊綱が広大な山荘を営み、以来、これを中核にして形成された荘園で、後に皇室御領として伏見宮家代々が相承したいわゆる名字荘園の一つ。

伏見の地は、平安遷都に伴って近郊地と化し、魚鳥の豊かな狩猟場として、またその山河のおりなす自然の美しさゆえに平安貴族の愛好の場所となり、やがて藤原氏の領地となった。橘俊綱がこの地に壮大な山荘を営んだのは延久年間(一〇六九―七四)と考えられている。山荘での豪奢な生活ぶりは、人々をして、橘俊綱を「伏見長者」といわせたという(→伏見殿跡以後、伏見の領地は、この山荘(後の伏見殿)を中核にして発展をみた。

伏見庄の初見は、永暦元年(一一六〇)五月五日付後白河院庁下文(大谷大学所蔵文書)である。

<資料は省略されています>

この下文は伏見庄を知行する平入道範家をはじめとする荘民が、「木幡伏見一山之嶺」つまり現在の八科やじな峠を基点にした伏見山の稜線辺りで境を接する「木幡浄妙寺領見作田佰伍拾町」に、「伏見荘之私領」と号して押入り押妨を極めたことに対し、浄妙じようみよう(跡地現宇治市)はそれを院庁に訴え、結局、範家らの押妨は停止され、浄妙寺領の保全がはかられたというものである。院庁の決裁を得るまでに三年もの歳月を要したとあるから、事件の発生は、保元三年(一一五八)ということになるだろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報