伊佐村(読み)いさむら

日本歴史地名大系 「伊佐村」の解説

伊佐村
いさむら

[現在地名]土佐清水市足摺岬あしずりみさき 伊佐

足摺山の西麓に位置し、北に白皇しらおう山を負い、南は海に面する。足摺半島西岸最南端の村で、足摺村はその枝郷。西は松尾まつお村に続き、境にあたる大戸スホノロ鼻では、縄文時代の石鏃や敲石が採集されている。古代には鯨野いさの(和名抄)に含まれたと考えられる。

足摺半島西岸の伊佐・松尾・大浜おおはま中浜なかのはま・清水・こえ養老ようろうの各集落を鼻前はなまえ七浦といい、江戸時代以来鰹漁で知られた。この地域では岬のことをオハナとよび、金剛福こんごうふく寺に詣ることを「オハナに参る」などという。西海岸を通ってこのオハナに至るまでの漁村が鼻前七浦である。

村名は天正一七年(一五八九)の足摺之村地検帳にみえ、伊佐村の検地面積一〇町六反余、屋敷数三九、うち居屋敷二七。屋敷のうちには金剛福寺の院坊である十輪院・賀宝坊・西ノ坊が含まれ、ほかに白王権現奥院がある。すべて足摺(金剛福寺)分。ホノギに「鍛冶ヤヤシキ」「大工ヤシキ」「マンチウヤシキ」などがみえる。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)によると伊佐・松尾を統べる浦刀禰がおり、天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書によれば両浦合せて水主数五一、船数八(うち漁船七)。元禄地払帳によると本田高一二四石余、うち五四石余は金剛福寺領、七〇石余は蔵入地、新田高二九石余は全部貢物地。これは足摺村を含めた数値で、伊佐村の本田高は一〇一石余(元禄郷帳)。なお地払帳は本田・新田の総計を一二八石余とし、内訳と合わないが、新田高の数値が誤りか総計が誤りかわからない。

土佐州郡志」が「農漁雑処、戸凡三十余」と記すように、当村には郷・浦両分があったが、元禄二年(一六八九)中村藩が廃絶されるまでは、郷分は中村藩、浦分は土佐藩に属し、本田高のうち半ば近くは金剛福寺領となっており、しかも金剛福寺領分の百姓には江戸時代初期、諸役が免除されていた(南路志)ため、利害関係は複雑であったとみられる。

伊佐村
いさむら

[現在地名]美祢市伊佐町伊佐

現美祢市東端に位置し、東から南を南原寺なんばらじ山塊で厚狭あさ郡の東吉部ひがしきべ西吉部にしきべ万倉まぐら(現楠町)の諸村と接する。秋吉あきよし台の西南端にあたり、村内の半ばは石灰岩台地で、集落は厚狭川の支流伊佐川流域に点在する。西にさくら(四五五・五メートル)がそびえる。

和名抄」に記される古代の位佐いさ郷の地とされる。また桜山山頂の南面にある南原寺聖徳太子の創建と伝え、正暦二年(九九一)花山法皇が十一面観音を安置したという。中世には位佐庄(石清水八幡宮領)とも伊佐別府いさべつぷともよばれた。弘治三年(一五五七)八月の仁保太左衛門家文書(「閥閲録」所収)伊佐別府、また同年の杉七郎左衛門家文書(「閥閲録」所収)には伊佐郷とも記されている。

慶長一五年(一六一〇)検地帳では伊佐郷として、総石高四千一四〇石余、うち田は三〇五町余で高三千六一四石余、畠は七九町余で高三一二石余、百姓屋敷数三二二、市屋敷数二五、ほかに小物成四四石余とある。

伊佐村
いさむら

[現在地名]宜野湾伊佐いさ・伊佐一―四丁目・喜友名きゆうな二丁目

安仁屋あんな村の南西、東シナ海に面した海岸低地に位置する。「おもろさうし」巻一五の五一に「一 きのわんののろの(宜野湾のノロが)/ゑさもりに おれわちへ(伊佐森に降りたまいて)/しまかねて(島〔領地〕を支配して)/あんしおそいに みおやせ(按司襲いに奉れ)/又 ねのしまの のろの(根の島のノロが)」とある。伊佐森いさむいは当村にある御嶽伊佐ノ嶽で「マシラゴイノ御イベ」を祀る。初め浦添うらしー間切に属し、絵図郷村帳では同間切のうちに「いさ村」とある。琉球国高究帳では「いさ村」は高頭二九八石余、田一二〇石余・畠一七八石余。康熙一〇年(一六七一)宜野湾じのーん間切新設により管轄替えとなり、「琉球国由来記」では宜野湾間切のうちとして村名がみえる。

伊佐村
いざむら

[現在地名]八鹿町伊佐

坂本さかもと村の北西、ふな山の西麓、円山まるやま川東岸の沖積地に位置する。西方対岸は宿南しゆくなみ村、北は浅間あさま村。宿南・浅間両村地内の畑地・荒地を開いて成立した新田村で、伊佐新田ともいった。寛文九年(一六六九)気多けた郡の龍野屋宗輔、出石いずし城下(現出石町)の春田次郎兵衛(休也)らが開発に着手し、翌年からは円山川から用水を引く工事に取掛ったが挫折、延宝二年(一六七四)春田休也が上京して新たに出資者を募り、京都の桜井平右衛門・松屋八郎右衛門らが事業を引継いだ。同四年には舟山の下に隧道を掘って導水、同九年に検地を受けて高二二五石余・反別二二町四反の新田が開かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報