井手野村(読み)いでのむら

日本歴史地名大系 「井手野村」の解説

井手野村
いでのむら

[現在地名]直入町上田北かみたぎた 井手野・笹平ささびらみずざこかみはる

冬田ふゆだ村の北東せり川の支流馬門まかど川の中流域に位置。室町時代と思われる年月日未詳の能景預ケ状(大塚文書)に「直入郡之内井手野之村」とみえる。田北氏の祖親泰が嘉禎二年(一二三六)父大友親秀から所領を譲与され、翌三年安堵の将軍家下文に「井手野」がみえる(「大友田北氏系図」田北赳夫本)

文禄三年(一五九四)太閤蔵入地岡藩預地、慶長六年(一六〇一)幕府領府内藩預地、元和二年(一六一六)日田藩領、寛永一〇年(一六三三)幕府領中津・杵築両藩預地、同一一年亀川藩(のち中津留藩・高松藩)領と変遷ののち明暦四年(一六五八)松平(大給)忠昭の府内入部の際幕府領になり(同年「御取ヶ郷帳」府内藩記録など)、天和二年(一六八二)日田藩領となる。

井手野村
いでのむら

[現在地名]伊万里市南波多町みなみはたちよう井手野

大野おおの(四二四メートル)の東南斜面で、東端徳須恵とくすえ川が北流する。慶長絵図に「井手野」とある。寺沢広高知行宛行状(有浦家文書)にも

<資料は省略されています>

とある。中里家記録には「椎峯つぶれは、元禄十年丑の六月より出野大庄屋与次兵衛支配に成り候て四年目」と出野と書く。

小字名に鳥居原とりいばる宮司みやじ新久田あらくたつるはる(波多川沿岸)などがあり、前の三地名は村内の白山はくさん神社と関連する。同神社は長久二年(一〇四一)松浦党の祖源久が当地方の強賊を討った時、祈願所として加賀国の白山神社を勧請古川ふるこ邑に建立したと伝えられる。

井手野村
いでのむら

[現在地名]三瀬村大字藤原ふじはら字井手野・柳瀬やなぎせ栗原くりはら泥山どろやま

椎原しいばる峠の西南鳴瀬なるせ川の上流の盆地状地帯に開けた村。かな山の東南にあたる。正保絵図に村名がみえる。貞享四年(一六八七)改の郷村帳には神埼郡の「奥山内」に記されている。

江戸時代にはこの地に山留とよばれた山方役人を配置して、佐賀藩の藩有林の管理にあたらせた。また筑前国との国境のため椎原峠の監視を目的として番所が置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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