中野新村(読み)なかのしんむら

日本歴史地名大系 「中野新村」の解説

中野新村
なかのしんむら

[現在地名]新湊市七美中野しちみなかの有磯ありそ

八島新やしましん村の西に位置し、西を鍛治かじ川が流れる。沼沢地を開拓して寛永二年(一六二五)に村立てされたという。開拓にはうしくび用水が利用された。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高六四石、免二ツ、明暦三年から寛文六年までの新田高一三三石(三箇国高物成帳)。安永七年(一七七八)の高四七八石、うち新開高は寛文三年に三二石余、延宝四年(一六七六)に四二石余、同六年に一〇二石余、元禄一五年(一七〇二)に一八石余があり、ほか手上高は延宝三年の一五石をはじめ寛保三年(一七四三)までに六〇余石を数えた。

中野新村
なかのしんむら

[現在地名]立山町東中野新ひがしなかのしん

常願寺川右岸扇状地の基部、岩峅寺いわくらじ村と横江よこえ村の中間に位置。単に中野村ともよばれた。正保郷帳に記載はないが、この頃に最初の入植者小左衛門らが現在の小字下市場しもいちば(神明宮北方)の湧水付近に入植したとみられる(立山町史)。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二〇四石、免三ツ三歩(三箇国高物成帳)

中野新村
なかのしんむら

[現在地名]富山市中野新

常願寺川左岸沿いにあり、集落東側を北陸街道(巡見使道)が通る。北は宮成新みやなりしん村。承応三年(一六五四)に村立てされた(出来新村・退転村記申帳)。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高四〇石、免三ツ二歩。寛文六年(一六六六)一六石の検地引高があり、同一〇年の村御印では草高二四石となる(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の打銀高三一石、免三ツ二歩(「高免帳」杉木家文書)

中野新村
なかのしんむら

[現在地名]黒部市中野

北は牧野新まきのしん村、南は前沢まえざわ村。承応三年(一六五四)中野という所を新開して村ができたので村名とした(「新川郡村名由来」加越能文庫)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二七石、免三ツ八歩(三箇国高物成帳)。享保八年(一七二三)から五度の手上高があり、天保一一年(一八四〇)の草高四〇石(「高免帳」杉木家文書)

中野新村
なかのしんむら

[現在地名]砺波市上中野かみなかの

中野村の南、庄川左岸にある。東は庄川を挟んで庄金剛寺しようこんごうじ(現庄川町)。村域は初め中野村と対岸庄金剛寺村の間で論所となっていた川原で、享保五年(一七二〇)の新開高三五石、文政六年(一八二三)の新開高一〇〇石余に、天保九年(一八三八)の検地出高を加え、同年高一八〇石余・免二ツ五歩で村立てされた(文化五年―慶応四年「御領国中村名帳」加越能文庫)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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