中村惕斎(読み)なかむらてきさい

精選版 日本国語大辞典 「中村惕斎」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐てきさい【中村惕斎】

江戸初期の儒者京都の人。名は之欽、字は敬甫。通称七左衛門、仲二郎。一六歳で「性理大全」を熟読して朱子学を奉じ、伊藤仁斎と並び称された。「四書示蒙句解」「孝経示蒙句解」などの啓蒙書が広く読まれ、「訓蒙図彙」「比売鑑」など庶民の教化にも功があった。ほかに「四書鈔説」「筆記周易本義」など。寛永六~元祿一五年(一六二九‐一七〇二

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デジタル大辞泉 「中村惕斎」の意味・読み・例文・類語

なかむら‐てきさい【中村惕斎】

[1629~1702]江戸前期の儒学者。京都の人。名は之欽。朱子学を奉じ、伊藤仁斎と並び称された。著「四書示蒙句解」「訓蒙図彙」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中村惕斎」の意味・わかりやすい解説

中村惕斎
なかむらてきさい
(1629―1702)

京師(京都)の人。江戸前期の程朱(ていしゅ)学派の儒者。名は之欽(しきん)、字(あざな)は敬甫(けいほ)、通称は七左衛門、のち仲二郎と称した。惕斎はその号。その出自はつまびらかにすることができないが、その学問人格が古義堂の伊藤仁斎(いとうじんさい)と並び称せられたように、商家の人と推定される。商人の間で成長しながら寡欲で財利や功名に無関心で、物価や世俗にも疎く、俗世間との交渉を絶ってもっぱら自学自習に努めた。その学問は程朱学であるが、師承もなく篤実(とくじつ)な道徳身上とした。『四書示蒙句解(ししょじもうくげ)』27巻はその主著である。博学をもって知られ、天文地理、尺度量衡、音律(いんりつ)、礼等の著作をはじめ、その著書は80部にも及ぶ。京都の朱子学派と同様に、朱熹(しゅき)(朱子)の性理学に忠実であるとともに考証的な研究にも長じた。のち徳島藩の儒官を務めた。篤実な学問と人格において仁斎に匹敵するが、著書とその博学において仁斎を超える。

[今中寛司 2016年6月20日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中村惕斎」の解説

中村惕斎 なかむら-てきさい

1629-1702 江戸時代前期の儒者。
寛永6年2月9日生まれ。独学で朱子学をおさめ,天文地理,度量衡から音律にまで精通する。伊藤仁斎(じんさい)とならび称されたが,生涯仕官しなかった。元禄(げんろく)15年7月26日死去。74歳。京都出身。名は之欽(しきん)。字(あざな)は敬甫。通称は七左衛門,仲二郎。著作に「四書示蒙句解(じもうくげ)」,編著に「訓蒙図彙(きんもうずい)」など。

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367日誕生日大事典 「中村惕斎」の解説

中村惕斎 (なかむらてきさい)

生年月日:1629年2月9日
江戸時代前期;中期の朱子学者
1702年没

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世界大百科事典(旧版)内の中村惕斎の言及

【絵本】より

…やがて印刷が始まり,衆に先がけて京都の角倉了以が本阿弥光悦とともに,いわゆる嵯峨本を刊行し(1608),その挿絵は以後の印刷本の見本になった。ヨーロッパでコメニウスが教育的図鑑《世界図絵》(1658)を出版したのにややおくれて,京都の儒者中村惕斎(てきさい)は同様の考えから《人倫訓蒙図彙(きんもうずい)》(1666)を著し,多くの追随者を生んだ。そのころから江戸では出版が盛んになり,やがて赤表紙をつけた子ども相手の5~6枚の中本や小本が現れた。…

※「中村惕斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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