下畑村(読み)しもはたむら

日本歴史地名大系 「下畑村」の解説

下畑村
しもはたむら

[現在地名]美和町大字下畑

玖珂郡の北部、萩藩領奥山代おくやましろの東南部にあり、阿賀あか村の南、生見いきみ村の西、南桑なぐわ(現美川町)および岩国藩領西畑にしばた村に北隣する。山に囲まれた南北に細長い村で、村内を下畑川が南流する。萩藩領奥山代宰判所属。

村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に「下畑畑」として出る。村名由来を「注進案」は「往古、かみ上田原じようたはら今半分阿賀村に属すしも、下畑今宮の原辺夫より長畑今紙屋辺長谷今柿の木原・長浴辺と連続仕居候処、六郷七畑分疆之節、四ケ所を合して一邑とせし時に、河内社鎮座之地名をとりて、下畑村と唱候由申伝へ候」と記す。

下畑村
しもはたむら

[現在地名]八千穂村大字畑 下畑

千曲川左岸、比高一〇メートル内外の低い段丘上に位置する南北に細長い村。東は千曲川によって下海瀬したかいぜ村・海瀬新田村(現佐久町)に相対し、西は比高約五〇メートルの段丘崖をもって大窪おおくぼ村に境し、南は中畑村、北は高野町村(現佐久町)に接する。村の中央を佐久甲州往還が南北に貫通している。

中世から伴野庄畑物村の一部であったが、天正一四年(一五八六)依田康国領の信州佐久郡之内貫之御帳に「百五拾貫下畑分、拾壱貫大窪分、七拾貫中畑村、七拾貫上畑村」とあるから、この頃、上畑・中畑・下畑・大窪の四ヵ村に分れたものと思われる。

村の西方、段丘崖上に下畑城跡、その北に接して下の城跡がある。下畑城跡はよく旧形をとどめ、付近の字名にも古名を多く残している。下の城はその支城とみられる。「妙法寺記」に、天文九年(一五四〇)武田信虎が佐久郡に攻め入り、一日に城を三六落し、小山田殿(甲州郡内領主)の代として、小林宮内助も一城を構えた、とあるのが下畑城であろう。その後、武田信玄が佐久地方を領有するに及び、この地方の番城として小宮山丹後守昌友に守らせたものと思われる。

下畑村
しもはたむら

[現在地名]飯能市下畑

岩淵いわぶち村の東に位置し、西は上畑村。加治かじ領に属した(風土記稿)。畑は南北朝時代の武将畑六郎左衛門時能の名字の地と伝える。時能は南北朝内乱期に脇屋義助に属して活躍、「太平記」巻二二に「坂東八箇国ニ更ニ勝者無リケリ」と剛力無双ぶりが描かれている。延元二年(一三三七)以後は越前に転戦、新田義貞や義助とともに斯波高経軍と戦っている。字曾根そねにある大明神だいみようじん山の小祠を新田につた大明神と称し、越前で自害した新田義貞の霊を祀ったものという(「下畑村誌料」飯能市蔵)

田園簿に村名がみえ、高は田方二一石余・畑方九六石余、幕府領

下畑村
しもはたむら

[現在地名]垂水区下畑町・松風台しようふうだい一丁目・朝谷町あさたにちよう清玄町せいげんちよう塩屋台しおやだい一―二丁目・桃山台ももやまだい一―七丁目・つつじがおか三―四丁目・塩屋北町しおやきたまち一―四丁目・青山台あおやまだい八丁目

鉢伏はちぶせ山と鉄拐てつかい山の北麓山間の摂播国境に位置し、南は塩屋村、北東の摂津国八部やたべ多井畑たいのはた(現須磨区)から塩屋村に至る道筋にあたる。中世下端しもはた庄の遺称地。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方三六七石余・畠方四二石余、旱損所・小松山あり。「明石記」によると東西二町・南北一町半。池大一九・池小一〇五・郷蔵・折紙山・藪五・小藪三・自分山四七・野山二・池林・井関林二、八幡宮・天王・大歳おおとし明神(現大歳神社)がある。

下畑村
しもはたむら

[現在地名]豊北町大字北宇賀 下畑

宇賀うか村内の北東、粟野あわの川支流の太田おおた上流に位置する集落で、宇賀村の中心である本郷ほんごう(現豊浦町)へはなか峠・しも峠を越える。

田耕たすき神社の「大護社録・天神託宣秘書」に「嶽の畑上下」とあり、また八代やしろ村ともよばれた。小名に土井・二方契・永仙・湯免・太郎原・市信などがある。

この地には中世以来の郷士がおり、江戸時代には狭い地域ながら長府藩士一、陪臣三家があった。

下畑村
しもはたむら

[現在地名]吉永町加賀美かがみ

八塔寺はつとうじ川上流の谷間にあり、東は播磨国境、北は滝谷たきだに村、南は大股おおまた村。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に八塔寺と肩書して村名がみえ、物成四五石余、夫米二石余。寛永備前国絵図によれば高四三石余。「備陽記」では田畑七町一反余、家数二一・人数一〇六。享保六年(一七二一)の蔵入并知行高村分帳によると蔵入。

下畑村
しもはたむら

[現在地名]大仁町下畑

狩野かの川支流である深沢ふかざわ川流域に開けた谷間の村で、西は三福みふく村、南は大野おおの(現修善寺町)。北条氏所領役帳に二五貫文「豆州大野・下畑」秩父孫四郎とあり、大野とともに小田原北条氏馬廻衆秩父孫四郎の所領があった。文禄三年(一五九四)検地が行われたという(増訂豆州志稿)。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」によれば高一一三石余、元禄初年高帳では新田高一二石余、元禄郷帳には下ノ畑村とあり高一二五石余。領主の変遷は神益かんます村に同じ。

下畑村
しもはたむら

[現在地名]三朝町下畑

上西谷かみにしだに村の南方、竹田たけだ川上流(大谷川)に位置する。上流は大谷おおたに村。拝領高六四石余。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高八〇石余、竈数二七。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高七〇石余、高九二石余、うち畑高四石余。免四ツ七分、倉吉御蔵納。炭役米一斗五升が課され、棟数六軒・役高一二〇人。男六三・女五五・山伏万正院一。御国札第五番札所の観音堂がある。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九〇石余、竈数一七。万延元年(一八六〇)当時、河村かわむら郡のなかで鉄山をもつ四ヵ村の一つ(在方諸事控)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報