宇賀村(読み)うがむら

日本歴史地名大系 「宇賀村」の解説

宇賀村
うがむら

[現在地名]甲奴町宇賀、双三ふたみ吉舎きさ雲通うづい

上下じようげ川の支流宇賀川上流域に位置し、世羅郡に属した。北東隣は甲奴郡梶田かじた村。瀬戸内海の尾道と石見大森おおもり銀山(現島根県大田市)を結ぶ赤名あかな峠越の石見路が、東の世羅郡小童ひち村より入り、西の三谿みたに郡吉舎村(現双三郡吉舎町)に抜ける。

永万二年(一一六六)平重衡から後白河上皇に寄進され、のちに紀州高野山領となった大田おおた庄の一部に含まれ、同年二月日付の備後国大田庄立券文案(高野山文書)に「宇賀村田弐町」「宇賀条畠」の内訳が記される。また同月の備後国司庁宣(同文書)には「堺四至打示桑原郷内宇賀村事」とあり、宇賀村は大田庄でも桑原くわばら郷に属した。文治二年(一一八六)大田庄は高野山の僧鑁阿の努力によって高野山領となるが、開発領主であった下司橘兼隆は、宇賀村などの公文職をも保有していた。

宇賀村
うかむら

[現在地名]豊浦町大字宇賀、豊北ほうほく町大字北宇賀きたうか

南北に走る狗留孫くるそん山系の西側ひびき灘までの地を占める大村で、南は浄天じようてん(三二二・一メートル)から西の海に延びる丘陵の稜線で小串こぐし村、北は神田上かんだかみ滝部たきべ田耕たすき(現豊北町)の各村に接する。村の南半(狗留孫山から北西に延びる稜線の南側)は現豊浦町に属するが、北半は現豊北町域で北宇賀と称する(豊北町の→宇賀村。長府藩領で西豊浦郡奥支配に属した。

「延喜式」(兵部省)に「長門宇養馬牧」とあるが、「長門国志」は「宇養即宇賀」としている。当地域の馬に関する地名に馬地うまじ馬路山うまじやま馬路こまくれ馬道うまみち駒杭こまくいがある。また、「和名抄」記載の額部郷の地ともいわれる。

宇賀村
うかむら

[現在地名]西ノ島町宇賀

現西ノ島町の北東部を占める。中世は一帯に宇賀牧が成立していた。慶長一八年(一六一三)七月の検地帳(西ノ島町役場蔵)では屋敷反別二町三反余、家数六〇で、寺宮四・大工二・役人二・公文一・神主一を除く五〇が本百姓役屋敷分であった。正保国絵図に宇加村とみえ、ほかに宇加村内としてその東に「こうか」、同西に倉谷くらのたに村・「ものい」などが記載される。江戸時代に宇賀村四在所とよばれたのは、小宇賀を含む宇賀と倉谷・物井ものい知当ちとうであった。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田四石余・三反余、畑三五三石余・二九五町八反余、小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)五一匁・漁請役三七匁・飛魚二束役四匁・和布二束役二分・海苔一斗三升役一匁三分・柄油二升役四分・核苧一貫五〇〇目役三匁九分余・牛皮七枚役丁銀一四匁、串鮑五串役は米一斗一升余、串海鼠八串役は米五升余で代納。

宇賀村
うがむら

[現在地名]大安町宇賀・鍋坂なべさか

宇賀新田の西に位置する。西部の鈴鹿山麓に沿って巡見街道が南北に通り、それを中心として集落が形成されている。天平一六年(七四四)に奈良大安寺に施入された「阿刀野百町」の四至のうち、「南武賀河」(「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」奈良市正暦寺蔵)が宇賀川のことかといわれており、この比定が妥当ならばこの地は当時大安寺領に接していたことになる。また「神鳳鈔」に内宮領「宇賀御厨十丁、三石、切田」の名がみえ、この御厨は建久四年(一一九三)に内宮・外宮両宮より神祇官に進上した注文に記載されていたという。「五鈴遺響」はこの村を「石榑ノ内ナリ」としており、宇賀御厨が石榑いしぐれ御厨・石榑庄の一部に包摂されるようになったのかもしれない。

宇賀村
うかむら

[現在地名]豊北町大字北宇賀きたうか豊浦とようら町大字宇賀

狗留孫くるそん山系の西に位置する大村で、西側はひびき灘に面する。村の北半は現豊北町域に属すが、南半は現豊浦町域である(豊浦町の→宇賀村。長府藩領で西豊浦郡奥支配に属した。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳では「宇賀郷」、「地下上申」では宇賀村と二見ふたみ浦とあり、豊浦藩明細書では宇賀二見うかふたみ浦、宇賀大河内うかおおかわち今倉いまくら両村、湯玉ゆたま(浦)掛地かけじ村・寺畑てらはた村・二見後地ふたみうしろじ村、上畑かみはた村・下畑しもはた村に分けて記している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報