下新田村(読み)しもしんでんむら

日本歴史地名大系 「下新田村」の解説

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]西宮市甲子園口北町こうしえんぐちきたまち・甲子園口一―二丁目・上甲子園かみこうしえん一丁目・松並町まつなみちよう松山町まつやまちよう熊野町くまのちよう日野町ひのちよう

下瓦林しもかわらばやし村の北東方、武庫むこ川下流と支流えだ川の分流地北西にあり、武庫郡に属する。久右衛門きゆうえもん新田・久右衛門新家きゆうえもんしんけ・下新家・下瓦林新家などとも称された。武庫川下流右岸は大雨のたびに洪水に見舞われ、上瓦林・下瓦林両村の東部は氾濫原として放置されていた。しかし近世初頭に武庫川堤が完成し水禍の危険性がなくなると、これらの荒れ地の開発が進められた。寛永一二年(一六三五)青山氏が尼崎藩主として入封すると、翌年から上・下両瓦林村において開墾が企図された。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]吹田市春日かすが一―四丁目・桃山台ももやまだい二―五丁目・千里山西せんりやまにし四―六丁目・千里山竹園せんりやまたけぞの一丁目・竹見台たけみだい二―四丁目など

山田八ヵ村の一で佐井寺さいでら村の西にある。北は上新田村(現豊中市)。村は千里丘陵の南西部に位置し、中央部は狭いが比較的平坦な地形である。寛永三年(一六二六)上新田村とともに山田下やまだしも村の枝村として高請されて成立。安永(一七七二―八一)から寛政(一七八九―一八〇一)にかけて成立した新田由来記(小畑家文書)によると、新田開発の経過は寛永三年幕府代官間宮三郎右衛門の指図により、山田下村の三人が頭取となって上新田村八〇石・下新田村四〇石で請負い、山田諸村との境界を定めて開発したという。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]桐生市相生町あいおいちよう二丁目

大間々おおまま扇状地上に位置。西は天沼あまぬま新田村、南は新田につた阿佐美あざみ(現笠懸村)、北は天王宿てんのうじゆく村、東は渡良瀬川を挟み本宿もとじゆく村。文化九年(一八一二)広沢ひろさわ用水の取水口が富士山下ふじやましたに設けられた。慶長一〇年(一六〇五)の桐生領高辻(新居文書)に「下新田宿村御縄入」とみえる。大間々村(現山田郡大間々町)を上とし、これに対応して下新田と名付けられたと思われる。寛文郷帳では高二四七石余で畑方のみ、館林藩領。元禄郷帳では幕府領。近世後期の御改革組合村高帳では高二七四石余、幕府領、家数一一三。「天保巡見日記」によれば天保九年(一八三八)四月二〇日、大間々町より一里余を経て当村に入り、「この辺ハ打ひらけし良田畑有、地味は砂多しといへども上土と見ゆ」と記す。

下新田村
しもにいだむら

[現在地名]中新田町下新田

南東流する鳴瀬なるせ川左岸の低平地にあり、加美郡東端にあたり、南と西の対岸は四竈しかま(現色麻町)、北は四日市場よつかいちば村、東は志田郡引田ひきだ(現古川市)に接する。現町域の最南端に位置する。文和二年(一三五三)頃斯波(大崎)家兼が下向し、師山もろやま(現古川市)を居城としたと伝え、この時新田につたを新井田と改め、上中下に分けたとされる(封内風土記)。「貞山公治家記録」によれば、伊達氏と大崎氏の合戦中の天正一六年(一五八八)二月八日、伊達勢は中新田攻撃を企てた。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]鶴ヶ島市下新田・羽折町はおりちよう

中新田村の北東にあり、南は高倉たかくら村、北は入間いるま浅羽あさば(現坂戸市)川越越生かわごえおごせ道がほぼ東西に通る。高麗こま郡川越領に属した(風土記稿)。高倉村内を開発して成立した新田とみられ、慶安元年(一六四八)の河越領内高倉村下新田屋敷検地帳(下新田区有文書)がある。高倉下新田とも称された(元禄七年柳沢保明領知目録)

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]前橋市下新田町・大利根町おおとねまち

北は上新田村、西と南は大沢おおさわ(現高崎市)、東の利根川対岸はぬでじま村。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)によれば、高四二〇石四斗余、内訳は田方三〇町五反余・畑方一九町七反余で、高崎藩領である。天明三年(一七八三)の浅間山噴火の被害は「少泥入」であった(浅間嶽焼荒記)。江戸後期の家数四二(御改革組合村高帳)。近世末期には前橋藩領であったと思われ、天保七年(一八三六)の前橋藩の質屋一覧では下新田村の喜三郎の名がある(関家御用日記「下川淵村誌」所収)。明治一〇年(一八七七)頃の田反別三一町六反余・畑反別一八町六反余、家数五二(うち社二)、人数男一二〇・女一二〇、牡馬二六。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]小田原市下新田・酒匂さかわ二丁目

東端をきく川が流れ、西は上新田村、北は鴨宮かものみや村、南は酒匂村に接する。天正二年(一五七四)あるいは一四年と推定される九月二五日の北条氏伝馬手形(神谷文書)の宛先に「自新田小田原迄宿中」とあり、新田の地名がみえるが、地域は不明。慶長一六年(一六一一)三月一〇日の伊久美彦兵衛外二名連署手形(相州古文書)は、「加茂宮新田分長兵衛」へ宛てられ、「かものみや新田之地」に移住した牢人の諸役免除を命じている。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]玉村町下新田

東は飯島いいじま村、北は福島ふくしま村、西は群馬郡上新田村・与六分よろくぶ村。日光例幣使街道が通る。滝川たきがわ用水の完成に伴う新田開発によって成立したと思われる。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方三四五石余・畑方三六三石余。近世後期の御改革組合村高帳では幕府領、旗本井上領など三給、家数一三六。日光例幣使街道の玉村宿として賑った。寛政五年(一七九三)の滝川用水上流天狗岩てんぐいわ用水の普請人足勘定帳(天田文書)によると人足四二四人を負担。明治一〇年(一八七七)頃の家数二五九(うち社三・寺三)・人数九一六、人力車四・荷車一四。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]三郷市鷹野たかの

樋口ひのくち村・小向こむかい村の西に位置し、南は久兵衛きゆうべえ村。村の北から西に向けて新大場しんおおば川・新不動しんふどう堀が流れる。もとは高須たかす村に含まれたと思われ(風土記稿)、田園簿・元禄郷帳には記載がない。元禄年中改定図(風土記稿)に「高須久兵衛村ノ内」の肩書のもとに下新田村とみえるが、分村した時期は不明。天保郷帳に一村として高付され高五一石余。検地は元禄八年(一六九五)の武蔵国幕府領総検地の一環として実施され、明和三年(一七六六)には新田検地、また文政元年(一八一八)には古大場ふるおおば川跡の新田検地があり高入れとなっている(「風土記稿」など)

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]上越市下新田

荒町あらまち村の東、矢代やしろ川右岸に位置。江戸中期頃までは下箱井しもはこい新田ともよばれた。正保国絵図には下箱井新田とみえるが高は不記載。天和三年郷帳では下新田村、高一四二石三斗余。元禄郷帳には下箱井新田で載り、高は同前。用水は十ヵ村じつかそん用水に依存。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]小国町千谷沢ちやざわ 原小屋はらごや

渋海しぶみ川右岸沿いにあり、集落は原小屋にある。小国東組に属する。元和七年(一六二一)千谷沢村による開発という(小国町史)。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚に千谷沢村の同所下新田高一三七石七斗余を記す。元禄五年(一六九二)の小国東組郷鏡帳(林久氏蔵)に村名があるが、庄屋は千谷沢村に在住している。反別は田一〇町五反余・畑屋敷九反余。家数一六、男三四・女四八、馬一〇。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]西脇市八坂町やさかちよう

合山あやま村の南、野間のま川流域に位置する。加西郡に属する。元和年間(一六一五―二四)に開発が始まったと伝える。江戸期の領主の変遷は享保一一年(一七二六)幕府領となるまでは合山村に同じ。延享三年(一七四六)三卿の一橋領(「徳川実紀」、「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書)となり、旧高旧領取調帳でも一橋領。正保郷帳に「合山ノ新田村」とあり、田方二八石余・畑方九石余。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]谷田部町高良田たからだ

上新田かみしんでん村の南に所在。古くは高須加たかすか新田と称し、正保―元禄(一六四四―一七〇四)の間に高須加下新田村と改称(新編常陸国誌)、下新田村を経て明治一九年(一八八六)に上新田村と合併し高良田村となった。江戸時代は天領で、後期には岡田寒泉が代官となった(岡田寒泉功徳碑)

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]伊那市大字伊那部いなべ 下新田

天竜川に三峰みぶ川が合流する河口の北側に開けた村。狐島きつねじま村の枝村であるが成立年代は不詳。高遠たかとお藩の鳥居氏時代(一六三六―八九)にその家中によって開発された家中かちゆう新田が村の起りと考えられる。正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻には村名はみえないが、元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳には狐島村とは別に「一、高 四拾七石四斗壱升五合 下新田村」とみえる。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]川崎区浅田あさだ一―四丁目・きよう町一―三丁目

南は東京湾に面する磯方の新田村で、北東は小田おだ村、西は潮田うしおだ(現横浜市鶴見区)に接する。「風土記稿」は元和四年(一六一八)の開発と伝える。田園簿に村名がみえる。近世を通し幕府直轄領。川崎宿の助郷を勤め、元禄七年(一六九四)の助郷高一〇四石(「川崎宿助郷帳」森文書)

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]下妻市下田しもだ

小貝こかい川右岸にあり、北は中新田なかしんでん村・数須かずす村。元禄一一年(一六九八)の常陸国西河内郡上・中・下新田書上(「村明細帳の研究」所収)によれば、寛永一六年(一六三九)に天領であった数須村のうちを弥八郎という者が開発し、弥八郎やはちろう新田と称した。その後古河藩領となり、万治二年(一六五九)に地詰が行われ、反別三九町三反三畝二六歩となり、その際下新田と改称した。

下新田村
しもしんでんむら

[現在地名]羽生市下新田

上新郷かみしんごう村に続くあいの川右岸の村。おし領に所属(風土記稿)。もと同村のうちにあったが分村し、「寛文朱印留」に村名がみえる。元禄郷帳では上新郷之新田下新田と記されるが、持添新田ではない。同帳によると高六九〇石余。忍藩領で幕末まで変化なし。同藩の谷郷組。元禄―宝永期(一六八八―一七一一)は百姓本人五九人、馬二八、用水は北河原きたがわら(忍領覚帳)、享保一二年(一七二七)には田方三五町三反余・畑方二七町六反余、本人五六(忍領石高社寺人別帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報