上保谷新田(読み)かみほうやしんでん

日本歴史地名大系 「上保谷新田」の解説

上保谷新田
かみほうやしんでん

[現在地名]西東京市東伏見ひがしふしみ五丁目・柳沢やぎさわ二―五丁目・新町しんまち一―六丁目

上保谷村の南、千川せんかわ上水に沿って東西に細長く延び、北は多摩郡田無たなし村、南は同郡関前せきまえ新田・関前村さかい(現武蔵野市)、西は同郡境新田(現同上)。享保期(一七一六―三六)武蔵野新田の開発の一環として、上保谷村の農民が開いた。成立以降幕府領で幕末に至る。元文元年(一七三六)検地が行われ、高一八三石余・反別七〇町四反余を打出した(保谷市史)。開発当初は人家も二軒と少なかったが、のち年次未詳ではあるが、家数三六軒と記した史料もみられるようになる(井口家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報