関前村(読み)せきまえむら

日本歴史地名大系 「関前村」の解説

関前村
せきまえむら

[現在地名]武蔵野市関前一―五丁目など

西窪にしくぼ村の西に位置し、南のさかい村との間を玉川上水が流れる。西に持添新田関前新田が開発されている。土豪開発新田の一つとして成立。戦国期に小田原北条氏家臣であった井口氏が主家没落後、豊島郡せき(現練馬区)に帰農し、八郎右衛門の代に関村の前に広がっていた札野とよばれた武蔵野の原野の開発に乗出した(武蔵野市史)。寛文八年(一六六八)八郎右衛門は息子杢右衛門ほか数名と新田仲間定書(井口家文書)を作成して開発の許可を得るための資金を用意し、翌九年に開発許可の出願を行い、同一〇年二月八日代官野村彦太夫に高井戸札野新田開発請状(同文書)を提出した。

関前村
せきぜんむら

面積:五・三五平方キロ

東は大三おおみ島、西と北を広島県の大崎下おおさきしも島・大崎上島によって囲まれ、岡村おかむら(二・九五平方キロ)小大下こおおげ(〇・九平方キロ)大下おおげ(一・五平方キロ)三島からなり、今治いまばり市より海上二〇キロを隔てた越智郡の西北県境に位置する。島はおおむね花崗岩からなり、ところどころ石灰岩層が露出し、岡村島の南端にある観音かんのん崎や、石灰の産地小大下島等はその好例である。また花崗岩の風土化で、ほとんど砂質壌土であり、秩父古成層地帯の角礫の含有がきわめて多く、蜜柑栽培に適している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報