三郎丸村(読み)さぶろうまるむら

日本歴史地名大系 「三郎丸村」の解説

三郎丸村
さぶろうまるむら

[現在地名]宗像市三郎丸・いずみおか一―二丁目

土穴つちあな村の東にあり、じよう山山麓を境に北東は遠賀おんが上畑じようばた(現岡垣町)。元応三年(一三二一)二月一五日、藤原(武藤)経俊は重代相伝の私領である赤馬あかま院内須恵すえ・三郎丸田畠屋敷等を子息氏鶴丸(武藤顕俊)に譲っている(「藤原経俊譲状」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文三六)。同年と考えられる年月日欠の譲状案(同文書/宗像大社文書二)によると、武藤経俊は赤馬院内須恵・三郎丸田畠屋敷等のうち田地二町と屋敷一ヵ所を氏鶴丸の弟の幸鶴丸(武藤資俊)に分与している。応永一三年(一四〇六)四月五日、武藤須恵宗治(顕俊)は重代相伝の私領赤馬院内須恵・三郎丸田畠屋敷を大宮司宗像氏経に譲っている(「武藤宗治譲状」同文書/宗像大社文書一)

三郎丸村
さぶろうまるむら

[現在地名]世羅町三郎丸

いかり山と市野坪いちのつぼ山の間を北西から南東に流れる大田おおた(現芦田川)の南側にある、郡内で最小の農村。南は青山あおやま村、北部は大田川流域の平地があり、川を隔てて堀越ほりこし寺町てらまちの両村に接し、東部から南部は市野坪山に連なる山地で、北東に流れる大田川支流域の谷の西部には中原なかばら村の枝郷がある。

観応三年(一三五二)四月一六日付通勝通綱連署寄進状(浄土寺文書)に「備後国重永別作免田方三郎丸名田畠事」とあり、これによると当村は中世には重永しげなが庄別作の名田で津口つくち賀茂かも善法ぜんぽう寺に寄進されたことがわかる。

三郎丸村
さぶろうまるむら

[現在地名]塩沢町三郎丸

のぼり川が魚野うおの川に合流する地点の右岸にある。北の魚野川対岸はしま新田、西の登川対岸は大里おおさと村、南は早川はやかわ村・枝吉えだよし村、東は雲洞うんとう村と大月おおづき(現六日町)。集落は清水しみず道沿いと下島しもじま横枕よこまくら長表ながおもてにある。枝村に三郎丸新田がある。かつては上十日町かみとおかまち村と大里村の間にあって木六きろく郷に属したが、数次の水害で早川郷の入口に移ったといい、開発は明応二年(一四九三)と伝える(南魚沼郡誌)。文明一七年(一四八五)二月九日の長慶庵領年貢取帳(龍泉院文書)にみえる「長面」は長表の地と考えられる。正保国絵図に村名がみえ、高四二〇石余、三郎丸新田高三七石余。

三郎丸村
さぶろうまるむら

[現在地名]小倉北区三郎丸一―三丁目・三萩野みはぎの三丁目・城野団地じようのだんち東城野町ひがしじようのまち神岳かんたけ一丁目

片野かたの村の東に位置し、神岳川(長添川)が流れる。秋月街道が通る。三郎丸遺跡で平安・室町時代の住居跡が出土。文永九年(一二七二)一〇月九日の門司六ヶ郷惣田数注文写(甲宗神社文書/鎌倉遺文一五)に片野郷内の名田として「三郎丸七町」がみえる。鎌倉初期とみられる弥勒寺喜多院領注進状(石清水文書/大日本古文書四―二)には「三郎丸五丁」と記される。元和八年人畜改帳に三郎丸村とみえ、高八三六石余、家数八九、人数二三三(うち百姓二五・名子一四)、牛三一・馬一。郷村高帳では高四〇七石余、うち新田高五石余。

三郎丸村
さぶろうまるむら

[現在地名]砺波市三郎丸

油田大坪あぶらでんおおつぼ村の北東にある。千保せんぼ川跡左岸の微高地に位置し、明治期までは東部に同川の霞堤があり、西を祖父そふ川が北に流れていた。元和五年(一六一九)の家高新帳に三郎丸とみえ、開発組に属し役家数五。正保郷帳では高二六四石余、田方一七町三反余・畑方三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一九七石・免四ツ六歩、小物成はない(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には八軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。文政八年(一八二五)には般若組、天保一〇年(一八三九)以後は若林組に属した。明治五年(一八七二)の家数三一・同居四、人数一九〇(明治初年の礪波)

三郎丸村
さぶろうまるむら

[現在地名]御調町三郎丸、府中市三郎丸町

ほん村の東に位置し、御調川北岸の平坦地と、北西に広がる山地部とからなる。元和五年(一六一九)の備後国知行帳では浦辺うらべ村に含まれており、分村の時期は不明。旧版「広島県史」所収の正徳(一七一一―一六)頃の記録に村名がみえ、高二三〇・三四五石。

三郎丸村
さぶろうまるむら

[現在地名]府中市三郎丸町、御調みつぎ郡御調町三郎丸

三郎丸村(御調郡)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報