三島村(読み)みしまむら

日本歴史地名大系 「三島村」の解説

三島村
みしまむら

[現在地名]伊予三島市朝日あさひ一―三丁目・紙屋かみや町・金子かねこ一―三丁目・中央ちゆうおう一―五丁目・宮川みやがわ一―四丁目

嶺北の東部の海岸沿いに位置する。東は村松むらまつ村・中曾根なかぞね村など、南は中曾根村、西は中之庄なかのしよう村に接し、北はひうち灘に面する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇摩うま郡の項には「三嶋村 日損所」とある。地名の由来については「愛媛面影」に、三島神社の社伝によると養老四年(七二〇)に越智玉澄が大三島宮(現大山祇神社)をこの地に勧請してから三島と名付けたとある。三島神社の勧請は古いが、玉澄の館は上柏かみがしわ村にあったと伝承され、三島は寒村であったと思われる。

「和名抄」にみえる宇摩郡山口やまぐち郷に属したとされ、中世には「伊予温故録」によると、字陣屋じんやに河野通郷館跡、字亀水きすいに得能通時館跡などがあって南朝方として戦ったと伝えられ、天正(一五七三―九二)の合戦の頃には川之江城(現川之江市)主河上但馬守が村松村境で謀殺されたとも伝えられる。寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡三嶋村明細帳に「元和九年加藤佐馬助様御検地 三嶋村 高九百七拾石二斗五升四合」とあり、江戸時代には諸領主支配を経たが、寛政九年の三嶋村明細帳によると、代官後藤覚右衛門支配の時(貞享二年―元禄四年在任)に池年貢につき仰付とあり、当時は幕府領であったことがわかる。元禄一一年(一六九八)今治藩領となって幕末に至る。

古くは寒村であったと思われるが、前記のように加藤左馬助(嘉明)の元和九年(一六二三)の検地の頃には大村となり、今治藩陣屋が置かれてからは宇摩郡今治藩領の主邑として発展した。村高も寛政九年の三嶋村明細帳によると、同年までには一六二石六斗二升九合の新田(うち新田一町四畝二二歩、新畑一八町四反二畝一八歩)を加えた。

そして三島港を利用しての商業活動も活発となり、川之江村と並ぶ主邑となっていった。

三島村
みしまむら

面積:三一・三六平方キロ

薩摩半島の南方約四〇キロから六五キロの洋上に位置し、東から西に並ぶたけ島・硫黄いおう島・くろ島の三島からなる。竹島は比較的平坦であるが、硫黄島は活火山島で急峻な地形を示す。西方に隔たる黒島は比較的緑に恵まれる。同島から東端の竹島までの距離は約五〇キロ。硫黄島から竹島にかけての海底に存在する鬼界カルデラ(南北一六キロ・東西二三キロ)から噴出した火山灰(アカホヤ火山灰)は、日本列島の大半を覆う広域火山灰である。アカホヤ火山灰層(約六千四〇〇年前)の上層は縄文時代前期、下層は縄文時代早期に編年され、考古学上の新旧年代を判定するのに大いに役立っている。竹島で最古の土器は縄文後期の市来式土器(約三千五〇〇年前)である。弥生―古墳時代のものはないが、平安時代後期の土師器須恵器・滑石製石鍋の出土が目立つ。硫黄島では港近くの磯松いそまつから縄文後期の大型磨製石斧、集落の中から弥生時代中期の土器や中国青磁、熊野神社境内からは一字一石経(種・賜・近・有・蔵・遍などの墨書文字)が出土している。黒島では大里おおざと集落から縄文後期の松山式土器(約四千年前)・市来式土器を中心に磨製・打製石斧や弥生土器片泊かたどまり集落から磨製石斧・石鏃、島の高所にある大平瀬おおひらせ牧場からは打製・半磨製石斧、砥石などが出土している。また赤生木の七郷あかおぎのしちごう牧場の近くから、丸木舟を製作するのに用いられたと考えられる棒状の丸鑿形石器が出土していることが注目される。黒島の考古遺物で特徴的なのは滑石製品が大量に発見されることで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて西北九州との交流が盛んであったことがうかがわれる。概して三島には考古資料がきわめて少ないが、これは竹島・硫黄島の半分近くを吹飛ばした喜界カルデラの大噴火や口永良部くちえらぶ島などの度重なる激しい火山活動が大きく影響しているものと思われる。

中世は薩摩国河辺郡十二じゆうに島のうち口五くちご島に属した。近世は南方のしち(現十島村)に対して三島・上三島・口之三くちのみ島などと称された。明治五年(一八七二)川辺郡南方みなみかた(現坊津町など)に属したともいうが(三島村誌)、不詳。

三島村
みしまむら

[現在地名]西那須野町三島・太夫塚たゆうづか大和町やまとちよう西原町にしはらちよう五軒町ごけんちよう西三島にしみしま東三島ひがしみしま西赤田にしあかだ南赤田みなみあかだ東赤田ひがしあかだ北赤田きたあかだ上赤田かみあかだ千本松せんぼんまつ南郷屋みなみごうやむつみ三区町さんくちよう扇町おうぎちよう

明治一五年(一八八二)に成立した村。那須野ヶ原の中部にあり、東は井口いぐち村・西富山にしとみやま村・高柳たかやなぎ村・南郷屋村・那須野村、南・西は那須野村、北は塩谷郡横林よこばやし村・接骨木にわとこ(現那須郡塩原町)。近世は周辺農村の入会秣場の西原にしはら。明治八年官有原野となった。同一三年三島弥太郎・久留清隆・印南丈作・矢板武から官有地一千町歩の払下願(「三島農場史料」西那須野町図書館蔵)が出され、同年八月、三島弥太郎ら旧鹿児島藩士一六人が開墾・牧畜・植林の目的で一千三七町歩の貸下げを受けた(「荒蕪地御払下願」国会図書館蔵三島通庸文書)。結社名を肇耕ちようこう社と称した。しかし代表三島弥太郎は当時一三歳に過ぎず、実質的な代表者は弥太郎の父で当時山形県令の三島通庸で、同志も通庸輩下の山形県吏が占めた。総株数は二七株、一株の出金高は八一八円(「肇耕社規則」同文書)。明治一三年中に小林熊蔵ほか一九人が太夫塚に(「願書」小林武雄文書)、島田真次ほか一四人が赤田山近くに入植(「引越人名記」島田武文書)

三島村
みしまむら

[現在地名]佐原市三島、茨城県稲敷いなしきあずま村三島

しん島に開発された十六島じゆうろくしま新田の一つ。境島さかいじま村の北西に位置し、北東を北利根川(現常陸利根川)、北西を横利根川に囲まれ、両川の分岐点にあたる。元和一〇年(一六二四)板久いたく(潮来村、現茨城県潮来町)の定納地「十三又須」に開起されたといわれ、同年に開起した大島おおしま村・扇島おうぎしま村と合せ新田二七町歩で、年貢一八両をそれぞれ板久村に納入していた(正徳四年「根郷五箇村谷地御定納記」伊能家文書)。この年貢は新田開発の請負人の西代につしろ(現東村)出身の山来彦六が納めているが、正保二年(一六四五)までに当村に百姓二二人が入植しており、同年の三島新田流作場検地では反高一〇町五反余、名主彦六の所持分は二町余で上田・中田が多く、入百姓は一戸当り三反八畝と均等に分けられている(山来家文書)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図によると霞ヶ浦と香取海の間に洲が形成されており、その中央部西寄りに「三嶋」とみえる。

三島村
みしまむら

[現在地名]吾妻町三島

吾妻川右岸の三島山北麓の村。北は同川を挟んで郷原ごうばら村・矢倉やぐら村・岩下いわした村・松尾まつお村・横谷よこや村。唐堀からほりに鎮座する鳥頭とつとう神社は赤木文庫本「神道集」(上野国児持山之事)に山代庄岩下に祀られたとあり(→矢倉村、当地も岩下に含まれたと推定される。永禄一〇年(一五六七)四月一六日大戸おおどを本拠とする浦野宮内左衛門尉に「三島山県」ほかが宛行われている(武田信玄書状写「新編会津風土記」所収)。天正一〇年(一五八二)七月七日上杉景勝は浦野能登守宛に「三島之地山県分可出置者也」という宛行状を発給している(上杉景勝宛行状写「上杉年譜」所収文書)

三島村
みしまむら

[現在地名]浜松市三島町

楊子ようず村の南に位置し、南は寺脇てらわき村。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に三島として三八九石余とある。松平忠頼領郷村帳では高二三二石余、田二町三反余・畑二二町六反余、ほかに阿弥陀寺(現時宗)領一一石・神宮じんぐう(現曹洞宗)領三石。同所新田として高四二石余、田五町七反余。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録に村名がみえる。領主の変遷は向宿むこうじゆく村と同じ。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では家数五五、うち役家四〇。文化一二年(一八一五)の年貢割付状(土屋家文書)によれば田一七三石余・畑一六九石余、畑田成九石余。

三島村
みしまむら

[現在地名]いわき市小川町三島おがわまちみしま

曲流する夏井なつい川の湾入部にあり、北・東・南を夏井川に囲まれる。西は高萩たかはぎ村・西小川村、東対岸は関場せきば村。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。

三島村
みしまむら

[現在地名]横芝町新島にいじま

北清水きたしみず村の南西に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一八一石。元和七年(一六二一)同高が旗本岡部領となり(文化一二年「知行所村々覚」大森家文書)、以後幕末まで同氏領(旧高旧領取調帳)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では屋形組に属した。

三島村
みしまむら

[現在地名]黒石市三島

黒石城下北方の平野部にあり、浪岡なみおか(現南津軽郡浪岡町)に通ずる街道に沿う。南の上十川かみとがわ村と北の高館たかだて村に挟まれた三島村と赤坂あかさか村は「境界犬牙し村居雑交し区域分ち難し」(新撰陸奥国誌)という状態であった。

弘前藩浪岡組に属し、貞享四年(一六八七)の検地帳では田方二七町二反七畝一六歩、二七四・九六石、畑方一七町四反七畝六歩、六三・八六九石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三島村」の意味・わかりやすい解説

三島〔村〕
みしま

鹿児島県南部,薩摩半島の南方 40~60kmの洋上に浮かぶ竹島硫黄島黒島の3島からなる村。第2次世界大戦後,北緯 30°以南の島々がアメリカ軍政下に置かれたため,十島村 (じっとうそん) のうち下七島が分離し,1952年上三島で三島村が成立。村役場は鹿児島市にある。農業が主で,サツマイモ,シイタケなどの栽培のほか,和牛の飼育が行なわれる。3島ともに好漁場に恵まれ,イシダイ,トビウオなどの水揚げが多い。硫黄島では硫黄採掘が行なわれていたが,1964年閉山。俊寛僧都や平家落人伝説にまつわる史跡が多く,自然美とともに重要な観光資源となっている。面積 31.39km2。人口 405(2020)。

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