三宅郷(読み)みやけごう

日本歴史地名大系 「三宅郷」の解説

三宅郷
みやけごう

古代児湯こゆ郡三宅郷(和名抄)を継承する中世郷で、現西都市三宅を遺称地として、一帯に比定される。建久図田帳には「三宅郷二十町、右臼杵郡内、地頭信綱」とみえる。当郷は日向国内での平家没官領臼杵郡三ヵ所六八町のうちの一ヵ所で、三ヵ所の地は鎌倉幕府御家人で蔵人所衆の宇都宮信房に与えられ、地頭は在国司職や多くの地頭職をもつ土持信綱(宣綱)であった。なおこの三ヵ所とは当郷のほか三納みのう郷四〇町と「間世田ませた八丁」で、三納郷は現三納一帯と考えられるが、間世田については不詳。延文六年(一三六一)一月一一日、荒滝彦次郎に郷内の水田三町と在家一人が与えられている(「某袖判水田等宛行状」荒武文書)。その際添えられた坪付(同文書)によれば、郷内には大岩名・石坂・朝日前・用坪・柿木田・山路西迫などがあった。永徳三年(一三八三)一一月二八日、子供のいない日下部盛秀は、給分である「ミやけの郷内ほんけよう下」三斗代の地三反を甥の彦三郎に譲っている(「日下部盛秀譲状」郡司文書)

三宅郷
みやけごう

現三宅町・十二里じゆうにり町一帯に比定され、葦浦あしうら屯倉の名を継承した郷名とする説がある。仁治三年(一二四二)四月五日の将軍家政所下文案(田代文書)によると、承久の乱における勲功の賞として「野洲南郡三宅郷」の住人品川四郎入道成阿が地頭職に補任された。以後、地頭職は為清―尚清―宗清と相伝され、和泉国大鳥おおとり(現大阪府堺市など)の地頭田代氏に嫁いだ宗清の娘松石女(理大)から、その子顕綱へ伝領されている(「三宅郷相伝次第」田代氏系図)。一方で、当郷一分地頭職や郷内の十三町(現石田町に字十三が残る)・六町・大方の田地も相伝の対象となっており、一分地頭職は永仁五年(一二九七)九月二三日に田代家綱(顕綱の曾祖父)からその子の基綱と竹鶴丸に譲られ、乾元元年(一三〇二)一二月二三日に基綱に安堵された(「関東下知状」田代文書)

三宅郷
みやけごう

「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。高山寺本で、大和国城下郡および河内国丹比郡内の三宅郷にはそれぞれ「美夜介」「美也計」の訓があり、元和古活字本にも「美也介」「三也介」と訓が付される。他の三宅郷の訓をもつものも同様であり、当地の例も「みやけ」と称していたとしてよい。海部あま郡にも三宅郷が知られる。「みやけ」に関しては、まず、大化前代における大和政権の直轄地であった屯倉の名に由来するものとの考えがある。

尾張国の屯倉については「日本書紀」安閑天皇二年五月条に間敷屯倉・入鹿屯倉の名が記され、次いで宣化天皇元年夏五月条に「蘇我大臣稲目宿禰、宜遣尾張連、運尾張国屯倉之穀」との記載があって、大臣蘇我稲目の命により、尾張連が尾張国の屯倉の穀を九州まで運んだことが記されている。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠いているが、全国に二〇例ある同名郷から「美也計」ないし「三也介」と訓じられたことは確かである。三宅の地名は大化前代における大和政権の直営地である屯倉に由来することが考えられるが、この付近では「日本書紀」仁徳天皇一三年条に、茨田屯倉まんだのみやけが茨田堤の築造と関連して記されている。堤の築造は仁徳天皇一一年条にみえ、そこには新羅人を使役したとあるが、「古事記」では所伝が相違し、「秦人を役だちて茨田堤及び茨田三宅を作る」とある。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。中島郡の三宅郷と同様「みやけ」と称していたものと考えられる。当郷の初見は、藤原宮出土木簡に「海評三家里日下部日佐良□軍布」「海評三家里人□部土□軍布」とあるもので、国名を欠くが、海評・三家里は「和名抄」では尾張国にあり、これらの木簡は当郷のものとしてよいようである。二例とも年紀をもたないが、「評」字の使用から、飛鳥浄御原令制下の七世紀末頃のものと推定される。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」道円本・高山寺本・東急本などに訓はない。現在の竹田市の北東部にあたる大野川・稲葉いなば川・濁淵にごりぶち川の各流域に比定される。「豊後国志」や「太宰管内志」は「日本書紀」安閑二年条にみえる豊国我鹿あか屯倉の所在を当郷に比定している。すなわち「豊後国志」は「按ずるに我鹿は後に阿鹿に作る。まさに音相通じ、今呼びて阿鹿野と曰う。旧くは阿鹿野、炭竈、刈小野などの地方を指して阿鹿野と曰う」と論じている。しかし安閑二年の屯倉設置の目的は、磐井の反乱を鎮圧したことに伴って北部九州に朝鮮侵略の拠点とルートを確保することであったと考えられており、我鹿屯倉を直入地域に比定することは困難と考えられる。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」にみえる。諸本ともに訓を欠くが、「みやけ」と読んだことは誤りない。郷域は現八尾やお市のうち、千塚ちづか大窪おおくぼ山畑やまたけ服部川はつとりがわ郡川こおりかわの地域であろう。朝廷の屯倉が存したと思われるが、どの屯倉か固有の名称は明らかではない。「新撰姓氏録」(河内国諸蕃)に「三宅史 山田宿禰同祖、忠意之後也」とみえる三宅史がこの地に住み、屯倉を管掌したかと思えるが、河内には他郡にも屯倉が置かれたから、高安の屯倉にのみ関係させてよいかどうかは不明。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」東急本は下井しもい郷の次に置く。東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「美也介」と読むべしとし、「日本書紀」安閑天皇二年五月九日条に「火国春日部屯倉」を置くとあることから、当郷はこれに由来するとして、のちの飽田あきた郡の春日かすが(現熊本市)に比定する。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、ミヤケであろう。「万葉集」巻九に常陸国鹿島郡刈野かるの(現茨城県神栖町か)で検税使大伴卿(大伴旅人か)と別れた際の歌として「牡牛の 三宅のに さし向ふ 鹿島の崎に」とみえる。この三宅浦は当郷名の遺称地である現銚子市三宅町に比定する説がある。しかし三宅では古東海道からはずれ、香取海(または海上の潟)を渡るのに遠回りとして、現香取郡小見川おみがわ小見川付近の江とする説がある(大日本地名辞書)

三宅郷
みやけごう

「和名抄」に「三宅」と記され、訓を欠く。「新編常陸国誌」に「按ズルニ伊島郷ノ北、大屋郷ノ南ニ於テ、オノヅカラ一郷ノ地ヲ残セリ」とあり、郷域は現鹿島郡旭村子生こなじ樅山もみやま沢尻さわじり上釜かみがま荒地あらじ玉田たまだ勝下かつおり滝浜たきはま柏熊新田かしわくましんでん鉾田ほこた町柏熊の一帯とされる。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」所載の郷。同書は諸本とも訓を欠く。当郷の名義に関して、「太宰管内志」は屯倉のあった所とし、「日本地理志料」は官倉の置かれた所として三宅・右松みぎまつ清水きよみず(現西都市)などの村を想定。「大日本地名辞書」は下穂北しもほきた村に比定する。「日向国史」は郷名は屯倉に由来するとし、日向国造の遺跡も付近にあり、のちに国府の地になったとする。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」にみえ、高山寺本に「美也計」、東急本に「三也介」の訓がある。天平勝宝二年(七五〇)三月二三日付上道人数勘籍(正倉院文書)に「河内国丹(比カ)郡三宅郷戸主大初位下上道波提麻呂戸口」とある。依網よさみ屯倉の地の一部であろう。三宅の名からすると、ここに依網屯倉を管理する建物や倉庫があったと考えてよかろう。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、高山寺本の訓「美也介」、名博本の傍訓「ミヤケ」から「みやけ」と読む。現福岡市南区三宅を中心とする地域に比定される。古くから「日本書紀」宣化天皇元年五月一日条にみえる、いわゆる那津なのつ官家との関係が指摘されてきた。近年、六世紀中頃―七世紀の大型倉庫群などが発見された福岡市博多区博多駅南の比恵はかたえきみなみのひえ遺跡(国指定史跡)が那津官家との関係で注目されているが、当郷との関係は別に検討される必要がある。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」高山寺本は「美也計」、東急本は「美也介」の訓を付す。「外宮神領目録」に諸郷祭料として「一石三宅郷」、「神鳳鈔」に「三宅郷」「内宮三家在家上分」とある。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)には「多気郡三宅郷内大女戸田三岡前里十六坪」に二反一八〇歩が所在。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、ミヤケであろう。比定地未詳であるが、現印西いんざい市の小倉おぐらを御倉として、印波国造が蔵を置いた地、また屯倉の置かれた地と推定されている。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「美也と訓ムべし」とし、郷名の由来について「屯倉を置れたる処なるべし」と記す。一方、「大日本地名辞書」には「今福島町、上妻村、三河さんがう村などならん、福島に大字稲留あり、稲積の訛にや、上妻村大字納楚なふそうあり、納所の訛にや、稲積・納所并に三宅の屯倉に因む所あるに似たり、上妻郡の旧邑にして、蓋郡家の地とす」とみえる。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本・名博本には記されず、東急本・元和古活字本には記載があるものの、訓を欠く。天長五年(八二八)一〇月三宅郷の他田公足が庸布一段(長さ二尺八尺・広さ二尺四寸)を貢納しており、国司とともに郡司擬少領外少初位下勲八等丈部石万呂が署名している(「正倉院調庸関係白布銘文」正倉院宝物銘文集成)

三宅郷
みやけごう

「和名抄」高山寺本に「美夜介」、刊本に「美也介」と訓ずる。「大和志」は「已廃存宮古村」として現磯城しき郡田原本町大字宮古みやこに比定。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「美也介」と訓を付す。屯倉のあったところで、大住郡の郡衙であったと考えられ、それを郷名としたものであろう。

三宅郷
みやけごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「美也介」の訓がある。「遠江国風土記伝」が宮口みやぐち(現浜北市宮口付近)とし、「大日本地名辞書」は麁玉村(現浜北市宮口・新原・灰木・堀谷・大平付近)とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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