丹比郡(読み)たじひぐん

日本歴史地名大系 「丹比郡」の解説

丹比郡
たじひぐん

和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「タチヒ」とある。東急本は「太知比」の訓を付すとともに「為丹南、為丹北」と注をつけている。同書によると当郡は依羅よさみ黒山くろやま野中のなか丹上たんじよう三宅みやけ八下はちげ田邑たむら菅生すごう丹下たんげ土師はにし狭山さやまの一一郷からなる。八下郷があって八上はちじよう郷がみえないが、原本では存在したかもしれない。当郡は平安時代に丹北・丹南・八上やかみの三郡に分れるが(後述)、丹比郡全体は、北は渋川郡および摂津国住吉郡、東は志紀郡・古市郡・石川郡、南は錦部にしごり郡、西は和泉国大鳥郡に接する。現在の行政区画では、松原市・南河内郡美原みはら町・同狭山町の全域と、大阪市東住吉区・同平野区・藤井寺市・羽曳野はびきの市・八尾やお市・堺市の各一部にあたる。条里は、延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)の丹北郡関係の項に、「壱条」「北参条」「北肆条」とあり、久安二年(一一四六)一〇月一七日の僧頼円田地売券(京都大学蔵古文書集)に「八上郡野遠郷萩原里卅五坪」とみえ、丹比郡に条里の布かれていたことがわかる。条里の跡も田園の間に残っており、広いところで南北一三条・東西一一里ほどが数えられる。そのうち丹北の条は、大津道(長尾街道)を境に北条と南条に分れ、北条の西除にしよけ川以西が西条とよばれたとする説もある。ちなみに紀伊高野山西南院蔵の羅婆倶舎念誦略次第の奥書に「仁平四年八月十一日於河内国丹比西条郡天見宮(下略)」とみえる。

〔古代〕

丹比郡の史料上の初見は「続日本紀」文武天皇四年(七〇〇)三月一〇日条の僧道照の没伝で、「和尚河内国丹比郡人也、俗姓船連、父恵釈小錦下」とある。「父恵釈」は大化改新に際し、燃える蘇我蝦夷の邸から国記を取出した船史恵尺であろう。文武天皇四年は飛鳥浄御原令制下であるから、本来は丹比評で、大宝令施行後に丹比郡となったのである。大宝令制下での初見は、「続日本紀」では神亀二年(七二五)七月五日条で、「河内国丹比郡の人、正八位下川原椋人子虫等四六人に河原史の姓を賜う」とある。そのほかでは、「河内国西琳寺縁起」所引「天平十五年帳」に僧智蔵について「河内国舟北(丹比カ)郡余戸郷余(里脱カ)主依(網カ)古渡男広岡、養老六年三月廿三日於薬師寺受戒受公験」とみえるのが早い例である。評・郡の名として丹比の初見は右のとおりであるが、丹比の地域の中心的な集落であったと思われる丹比邑の名は、「日本書紀」仁徳天皇一四年条に「是の歳、大道を京の中に作る。南門より直ちに指して、丹比邑に至る」とみえる(京は難波京のこと)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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