高安郡(読み)たかやすぐん

日本歴史地名大系 「高安郡」の解説

高安郡
たかやすぐん

和名抄」にあり、訓は高山寺本に「タカヤス」、東急本国郡部に「多加夜須」とある。北は河内郡、西は若江郡、南は大県おおがた郡に接し、東は生駒山地で大和国と境する。若江郡とは玉串たまくし川をもって境界とする。当地域はおおむね生駒山地西麓の扇状地上の高燥地で、西部のみ恩智おんぢ川筋の低湿地となっている。この扇状地上に縄文時代中期―弥生時代の大規模な集落跡と推定される恩智遺跡があり、遺跡東方の山腹から二個の銅鐸が出土、両者は関連するものと考えられている。古墳時代、山地西麓とりわけ当地辺りの最高峰高安山(四八八メートル)の山麓から山頂にかけては大規模な古墳築造地となり、高安千塚(高安古墳群)の名で知られている。

〔古代〕

「和名抄」では坂本さかもと三宅みやけ掃守かにもり玉祖たまのおやの四郷からなり、比較的狭小の郡である。現在では八尾やお市の東部にあたり、西は玉串川、北は楽音寺がくおんじから南は神宮寺じんぐうじに至る境域が明治時代の高安郡であるが、古代では楽音寺とその西の地域は河内郡であったかもしれない(→河内郡。また南端の神宮寺の地は近世には大県郡に属していた。古代でもそうであったとすると、もとの高安郡の南限は恩智までということになる。条里はこの地域にも布かれており、条は南から北へ進む。恩智を一条とすると、楽音寺は七条にあたり、それが河内郡条里の一条となるならば、高安郡条里は六条までとなる。東西は南北にくらべて狭く、里は二―四里程度である。条里と郷域の関係は、坂本郷が一条・二条、掃守郷が三条、三宅郷が四条・五条、玉祖郷が六条にあたるであろう。

当郡の成立については、「三代実録」元慶三年(八七九)一〇月二二日条に次の記事がある。河内国高安郡の人、従八位上常澄宿禰秋雄らが請いにより高安宿禰の姓を賜ったが、秋雄らがいうのに「先祖は後漢光武皇帝・孝章皇帝の後なり。裔孫高安公陽倍、天万豊日天皇(孝徳)の御世に高安郡を立つ」と。すなわち秋雄の祖の高安公陽倍が孝徳天皇のときに高安郡を立てたというのである。秋雄はなおこれに続けて、高安公陽倍は陽倍に音の似ている八戸史の姓を賜り、承和三年(八三六)に至って常澄宿禰を賜ったが本姓の高安にもどしてほしいと上申して、高安宿禰の賜姓にあずかったのである。上言の内容のすべてを信ずることはできないが、このときの賜姓者のなかには高安郡少領の常澄宿禰宗雄もおり、この氏族が高安郡の伝統的豪族であることは事実であろう。また八戸史が承和三年に常澄宿禰の姓を賜ったことは「続日本後紀」同年三月三日条にみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報