出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
ロシアの作曲家。ロシア国民楽派の一人であるが,長くペテルブルグ音楽院で教鞭をとり,ロシア音楽のアカデミズムの確立に貢献した。貴族の出身で海軍士官。1861年バラキレフらと知り合ってそのグループに入り,71年以降音楽院の教職に就き,職業音楽家の道に入った。70年代には民族主義的な初期のオペラ《プスコフの娘》《5月の夜》,そして《雪娘》(1881)などを作曲。80年代には音楽出版業で知られるベリャーエフの支持を得て,ロシア音楽界を指導する立場に立った。この時期ムソルグスキーやボロジンの遺稿の整理に多くの時間を費やしながらも,自らは管弦楽法に新境地を開いて,《スペイン奇想曲》(1887),《シェエラザード》(1888)などを書いた。一時,創作上の停滞期を迎えたが,チャイコフスキーの死後(1893)ふたたび異常な創作力の回復をみせて,毎年のように新作オペラを発表した。そのなかには,《サトコ》(1896),《皇帝の花嫁》(1898),《皇帝サルタンの物語》(1900),《金鶏》(1907)など,今日まで上演される話題作も多い。晩年に書き残した回想録《わが音楽の生涯の年代記》は貴重な歴史的記録である。また《管弦楽法原理》(1913),《和声学教科書》(1885)は広く用いられている。グラズノフ,リャードフ,アレンスキー,ストラビンスキー,ミャスコフスキー,プロコフィエフ,アサフィエフなど数多くの弟子を育て,その後のロシア・ソビエト音楽の展開に計り知れない影響を残した。
執筆者:森田 稔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…初演は大成功であったが,批評界は賛否両論に分かれた。作曲者の死(1881)後,まもなく上演曲目から外されたが,96年にリムスキー・コルサコフが全面的に改訂した版を出版した。シャリアピンがボリスを当り役として世界的に親しまれるようになった。…
…民族叙事詩によるオペラ《イーゴリ公》(未完。のちリムスキー・コルサコフとグラズノフにより完成。初演1890),異国情緒にあふれた音画《中央アジアの草原にて》(1880)などの作品が有名。…
… 文学ではチェルヌイシェフスキーやドブロリューボフを中心に《現代人》誌に集まったグループ,絵画では〈芸術家組合Artel’ khydozhnikov〉や〈移動展派〉のグループが生まれたが,それらと同様な立場にある。評論家スターソフが思想的中心となり,作曲家バラーキレフを指導者として,キュイ,ムソルグスキー,A.P.ボロジン,リムスキー・コルサコフらの作曲家が集まった。キュイは彼らの立場の宣伝者・批評家としても健筆を振るった。…
※「リムスキーコルサコフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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