ペドロ2世

改訂新版 世界大百科事典 「ペドロ2世」の意味・わかりやすい解説

ペドロ[2世]
Pedro Ⅱ, Dom Pedro de Alcântara
生没年:1825-91

ブラジル皇帝。在位1831-89年。ブラジル独立を宣言したペドロ1世の第7子。1831年父が退位したとき5歳であったため,皇帝の承認のみを受けて〈調整府〉の長となり,国は摂政期に入る。ブラジル独立の実質的推進者で自由主義的な民族主義者ジョゼ・ボニファシオJosé Bonifácio(1763-1838)らがこの幼帝の道徳的・知的教育を担当した。父皇帝と異なりブラジルに生まれ育ったうえに,聡明で温厚かつ控え目な性格であったため,帝国の統治者にふさわしい人物であるとして国民から成人宣言を待望されていた。憲法の規定より3年早く40年に14歳で成人宣言をし,41年に戴冠した。

 約50年に及ぶ統治時代の最初の10年間には北東部や南部地方で反乱が頻発したが,その後の40年間は政治的に比較的平穏な状態がつづき,議会では保守党自由党を分け隔てなく処遇し,絶えず調整的役割を務めた。47年に代議制を導入して議会の民主化を図り,50年にはイギリスの圧力を原因とするエウゼービオ・デ・ケイロス法公布によってアフリカからの黒人奴隷貿易を禁止し数年で全廃させた。これを契機として51年から63年まで帝政は成熟期を迎え,ブラジルは近代国家に向けて目覚ましい発展を遂げた。鉄道と電信による運輸・通信網の発達,工場および銀行数の増加による経済発展が実現し,外国貿易ではそれまでの砂糖や綿花に代わって新しい商品のコーヒーが輸出の王座を占めるようになった。科学や芸術の面でも進歩がみられ,帝政末期のブラジル固有の文化形成を準備した。対外政策では,51年から52年にかけてアルゼンチンのエントレ・リオス県の統領ウルキサたちの要請によって,独裁者ロサスからアルゼンチンを解放するために出兵し,ロサスは敗れて亡命,ウルキサが政権に就いた。これによって皇帝は内外に威信を示すことができた。

 しかし,64年から70年までは二つの意に反する対外戦争に直面し,帝政は転換期を迎えるに至った。一つはウルグアイアギレ政権との戦い(1864-65),もう一つはアルゼンチン,ウルグアイ,ブラジル間の三国同盟による対パラグアイ戦争(1865-70)であった。戦争の結果,国庫の大幅赤字によって財政危機がいっそう深刻となり,軍隊内部においては,奴隷解放の気運が高まり共和主義思想が広まった。70年に共和党が誕生し,71年には奴隷の新生児を自由とする法律が公布された。このころより89年までの期間に皇帝はたびたび欧米諸国を旅行し,皇女イザベルが幾度も摂政の地位に就き,88年の全奴隷解放法はイザベルの署名によって承認された。自由主義的な皇帝は共和主義思想に理解を示し,奴隷制に反対の立場であったが,これを不満とする大農園主階級と,すでに対立関係にあった教会の離反によって帝政の二大支柱を失い,89年にフォンセカの指導する無血クーデタにより帝政は打倒された。臨時政府に国外退去を命ぜられポルトガルに亡命,パリで没した。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ペドロ2世」の解説

ペドロ2世(ペドロにせい)
Pedro Ⅱ (Dom Pedro de Alcântara)

1825~91(在位1831~89)

ブラジル皇帝。1831年父ペドロ1世が退位したが,幼少のため摂政が置かれた。40年ペドロ2世の成人宣言がなされ,翌年皇帝となる。その統治期,コーヒー経済の発展と政治的安定により近代化が進んだ。しかし奴隷解放を機に,大地主と教会が離反し,共和思想の普及とあいまって,89年共和勢力による軍事クーデタで帝政は崩壊し,ポルトガルに亡命した。

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367日誕生日大事典 「ペドロ2世」の解説

ペドロ2世

生年月日:1825年12月2日
ブラジル第2代皇帝(在位1831〜89)
1891年没

ペドロ2世

生年月日:1648年4月26日
ポルトガル王(在位1683〜1706)
1706年没

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