ロサス(英語表記)Juan Manuel de Rosas

改訂新版 世界大百科事典 「ロサス」の意味・わかりやすい解説

ロサス
Juan Manuel de Rosas
生没年:1793-1877

アルゼンチンの政治家,独裁者。19世紀前半のラテン・アメリカを代表するカウディーリョの一人。ブエノス・アイレス州の農場主(エスタンシエロ)の家庭に生まれ,少・青年期を農村で過ごし,ガウチョに劣らぬ乗馬術を身につけ彼らの信望を得た。1815年食肉の塩漬け工場を友人と設立して大成功を収め,エスタンシエロとしての地位を確立した。1820年代に国内が中央集権派と連邦派に二分して対立を深めるなかで,ブエノス・アイレス市を州から切り離して国の首都としようとするリバダビア大統領(在任1826-27)の政策に反対して州権擁護を唱え,連邦派のリーダーとなった。29年には中央集権派のラバリエ知事を打倒してブエノス・アイレス州知事となり,31年に国内の中央集権派を平定し,連邦主義に基づく全国統一を実現した。

 32年に州知事の座を辞したあと,35年に再び州知事に迎えられ,国家統合の維持のために非常大権を与えられた。この権限に基づき州内の反対派を厳しく弾圧する一方,州外の中央集権派にも圧力を加え,反ロサス派の少なからぬ部分を国外に追放した。こうした反対派をウルグアイのコロラド党が庇護するのを見てとると,同国にも干渉し,コロラド党を支援するイギリス,フランス両国との対立を招いた。なかでもフランスは,38-40年と45-50年(イギリスは1845-49年)に2度にわたってラ・プラタ川封鎖しロサス政権を脅かしたが,彼は文教予算を削減するなどして軍備の拡充に努め,いずれの封鎖も挫折させた。だが,イギリス,フランス両国の封鎖で経済的な打撃を受けた他の諸州では彼への批判がしだいに高まり,51年5月エントレ・リオス州のウルキサが反ロサス運動に立ち上がった。翌年2月カセロスの戦でウルキサ軍に敗れたロサスはイギリスに亡命し,再び祖国の土を踏むことはなかった。一部の史家からは圧政・野蛮のシンボルとみなされているが,外国の干渉を排して自国主権を守った民族主義者として高く評価する立場(ロシスモRosismoと呼ばれる)もあり,その歴史的評価をめぐって今日なお論争が続いている。
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百科事典マイペディア 「ロサス」の意味・わかりやすい解説

ロサス

アルゼンチンの政治家,独裁者。ブエノス・アイレス州の農場主の家に生まれ,ガウチョに劣らぬ乗馬術を身につけ,彼らの信望を得る。1820年代の中央政府不在の同国で連邦派のリーダーとなり,軍事力を背景に中央集権派を打倒して1829年ブエノス・アイレス州知事となる。1831年連邦主義にもとづく全国統一を実現。州内外の中央集権派を弾圧,国外追放にした。ウルグアイのコロラド党がこれを庇護すると同国に干渉。1840年代には英仏両国によるラ・プラタ川の封鎖を受けたが,撤兵させた。経済的打撃を受けた他の諸州で彼に対する批判が高まり,1852年ウルキサ軍に敗れて英国に亡命。
→関連項目アルゼンチンサルミエント

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロサス」の意味・わかりやすい解説

ロサス
Rosas, Juan Manuel de

[生]1793.3.30. ブエノスアイレス
[没]1877.3.14. サザンプトン
アルゼンチンの政治家,独裁者。国内有数の大牧場主で,乗馬術に巧みでガウチョらの尊敬を集めた。 1829年連邦派の支持を得て,ブエノスアイレス州知事に選出された。 31年連邦条約を他州と締結して連邦制度の基礎を確立。 35年同州知事に再選され,連邦制に基づく全国制覇を完成,イギリス,フランスの侵略を阻止した。しかしその国粋主義的傾向と過酷な独裁体制は知識人の不満を呼び,また政治的,軍事的にウルグアイに介入してブラジル政府やウルグアイ人の反感を買った。 52年カセロスの戦いでブラジルおよびウルグアイと J.ウルキサの連合軍に敗れ,イギリスに亡命,同地で没した。

ロサス

マルティネス・デ・ロサス」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロサス」の意味・わかりやすい解説

ロサス
ろさす
Juan Manuel de Rosas
(1793―1877)

アルゼンチンの政治家。独裁者。大牧場主で、ガウチョ(牧童)からなる私兵団を擁し、カウディーリョ(統領)とよばれる実力者の典型であった。1820年代に連邦派と中央集権派の対立から国内が内戦状態に陥ると、前者の総帥にのし上がり、29~32年にはブエノス・アイレス州知事として連邦派による全国制覇を成し遂げた。35年には司法、立法、行政にわたる全権を委託されて州知事に再任され反対派を厳しく弾圧したため、恐怖政治と恐れられたが、30~40年代にたびたび試みられたフランスとイギリスの軍事干渉を実力で阻止したことから、その民族主義的側面が一部の史家により高く評価されている。52年にカセーロスの戦いで敗れたのちイギリスに亡命し、かの地で没した。

[松下 洋]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ロサス」の解説

ロサス
Juan Manuel de Rosas

1793~1877

アルゼンチンの独裁者,ブエノスアイレス州知事(在任1829~32,35~52)。典型的なカウディリョ。中央集権体制をめざすリバダビア政権に反対する連邦派のリーダーとして台頭し,1831年中央集権派をシウダデラにて破り,独裁体制を確立した。エントレ・リオス州知事ウルキサによる反ロサス運動が高まり,52年イギリスに亡命した。

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世界大百科事典(旧版)内のロサスの言及

【アルゼンチン】より

…サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。以後ブラジルとの交戦期(1826‐28)を除き永らく中央政府不在の状態が続くが,連邦派のブエノス・アイレス州知事ロサスJuan Manuel de Rosas(在職1829‐32,35‐52)は,軍事力を背景に州内外の中央集権派を弾圧して事実上の国家統一を達成した。また同政府の打倒を目指した40年代の英仏両国による軍事干渉にも頑強に抵抗して撤兵をよぎなくさせた。…

【アルゼンチン】より

…サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。以後ブラジルとの交戦期(1826‐28)を除き永らく中央政府不在の状態が続くが,連邦派のブエノス・アイレス州知事ロサスJuan Manuel de Rosas(在職1829‐32,35‐52)は,軍事力を背景に州内外の中央集権派を弾圧して事実上の国家統一を達成した。また同政府の打倒を目指した40年代の英仏両国による軍事干渉にも頑強に抵抗して撤兵をよぎなくさせた。…

【サルミエント】より

…40年チリに再び亡命し,ジャーナリストとして健筆を振るうかたわら,19世紀のラテン・アメリカにおけるロマン主義文学の最高傑作といわれる《ファクンド――文明と野蛮》(1845)を発表した。同書はカウディーリョのファクンド・キロガの伝記という形を採りつつ,当時の独裁者ロサスを批判したものであり,国の後進性の原因をスペイン的伝統や粗野なガウチョの存在に求め,西欧移民の誘致や教育の拡充による文明化=西欧化を提唱していた。52年ロサス政権の崩壊後はこうした理念の実践に努め,57年にブエノス・アイレス市の参事官,さらに教育局長,州議会の上院議員に選出され,62年にはサン・フアン州知事となった。…

※「ロサス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」