改訂新版 世界大百科事典 「パリオペラ座バレエ団」の意味・わかりやすい解説
パリ・オペラ座バレエ団 (パリオペラざバレエだん)
Paris Opéra Ballet
パリのオペラ座所属のバレエ団。1661年王立舞踊アカデミーとしてルイ14世により設立され,71年王立音楽アカデミーと合体した。世界で最も古いバレエ団。その初期にボーシャンPierre Beauchamp(1636-1705)が専任の舞踊教師および振付者として活躍し,ダンス・クラシックの揺籃の場とした。その後,ペクールLouis Pécourt(1653-1729),さらにデュプレLouis Dupré(1697-1774)らが舞踊の技術と様式を発展させてきたが,1720年代にはそれまで優位を占めてきた男性舞踊家に伍して,カマルゴおよびサレMarie Sallé(1707-56)の女性舞踊手が人気を競った。バレエの改革者ノベールがオペラ座で働いた期間は短かったが,その改革はガルデル兄弟Maximilien Gardel(1741-87),Pierre G.(1758-1840)により引き継がれた。1830年オペラ座は私企業的組織に改められ,その支配人となったベロンVéron博士の積極的な行動とともに一気にバレエ・ロマンティック全盛時代をよびおこした。タリオーニ,エルスラー,グリジらの名花が競い合い,《ラ・シルフィード》(1832)や《ジゼル》(1841)が上演された。しかし,彼女らの引退とともにバレエ・ロマンティックは衰退へ向かい,オペラ座のバレエも沈滞する。《コッペリア》(1870)の成功もその凋落を救えなかった。20世紀に入りディアギレフのバレエ・リュッスがヨーロッパを席巻するが,このころオペラ座の支配人となったジャック・ルーシエは,1929年S.リファールをメートル・ド・バレエに任命し,オペラ座の改革にあたらせた。リファールは58年までその任にあたり,フランス・バレエに再び生気を与え,水準を引き上げ,今日の基盤を築きあげた。その後は強力な専任振付師を欠いているが,そのためにレパートリーが多様化された。63年初来日。エトアール(最高位の踊り手)の一人,ノエラ・ポントアNoëlla Pontois(1943- )は日本で高い人気をもち,イベット・ショービレYvette Chauviré(1917- )は日本でも指導にあたっている。
執筆者:久保 正士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報