ハッタ(英語表記)Mohammad Hatta

デジタル大辞泉 「ハッタ」の意味・読み・例文・類語

ハッタ(Hatta)

アラブ首長国連邦ドバイ南東約120キロメートルにある飛び地。オマーンおよびラスアルハイマ領に囲まれる。伝統的な建造物を移築した野外博物館があるほか周囲には多くオアシスが点在する。

ハッタ(Mohammad Hatta)

[1902~1980]インドネシア政治家。オランダ留学中から独立運動に加わり、1945年共和国成立とともに副大統領に就任。56年スカルノ大統領と衝突して辞任

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改訂新版 世界大百科事典 「ハッタ」の意味・わかりやすい解説

ハッタ
Mohammad Hatta
生没年:1902-80

インドネシアの政治家。元副大統領。スマトラ島西部のミナンカバウ族出身で,ブキ・ティンギに生まれたが,1920年代のほとんどをオランダですごした。留学中から民族主義運動に加わり,インドネシア協会指導者として頭角を現した。26年末にインドネシア共産党の指導者であったセマウンとの間に〈反植民地運動の主導権を共産主義者から民族主義者へ委譲する〉旨のハッタ=セマウン協定を結んだ。32年に帰国し,シャフリルとともにインドネシア民族教育協会を指導して,当時インドネシア党を率いていたスカルノとの間で,現状認識,組織論,運動論をめぐって激しい論争を展開した。34年に逮捕され,ボーフェン・ディグール(イリアン),バンダネイラ(バンダ島)へ流刑された。日本軍政中に政界に復帰し,45年8月17日の独立宣言にはスカルノとともに署名した。その後,共和国初代副大統領としてスカルノと並び立ち,また,48年から50年にかけては首相・外相・国防相を兼任して国政の中枢にあった。56年,〈指導された民主主義〉への道を歩みつつあるスカルノの方針に反対して副大統領を辞任し,以後はついに政界へ復帰しなかった。その出身,経歴,資質等においてスカルノと対照的であり,それが,経済建設,議会制民主主義の政策論の主張として現れ,時代を超えて支持者を得る理由となっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハッタ」の意味・わかりやすい解説

ハッタ
はった
Mohammad Hatta
(1902―1980)

インドネシアの政治家。スマトラ西部ブキティンギ生まれ。1922~1932年のオランダ留学中に留学生独立運動「インドネシア協会(プルヒンプナン・インドネシア)」を指導した。1934年オランダ植民地政府に逮捕・流刑されたが、1942年彼の協力を求める日本軍によって釈放された。1945年スカルノと連名でインドネシアの独立を宣言。初代副大統領としてスカルノ大統領とともに「二者一体」と称された。1948~1950年には首相・外相・国防相を兼任、軍・行政の合理化と経済建設に心血を注いだ。しかし、カリスマ的指導者たるスカルノが権威主義的な「指導民主主義」に傾斜し、急進民族主義外交を展開し始めたことに失望して、1956年副大統領職を辞し、一知識人としてスカルノ体制を批判し続けた。彼の著『我等が民主主義(デモクラシ・キタ)』(1960)は「九月三〇日事件」後のスハルト新体制の一指針とされたが、同体制の軍政色が濃厚になるにつれ、しだいに体制批判を強めた。

[黒柳米司]

『ハッタ著、大谷正彦訳『ハッタ回想録』(1993・めこん)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハッタ」の意味・わかりやすい解説

ハッタ
Hatta, Mohammad

[生]1902.8.12. スマトラ,ブキチンギ
[没]1980.3.14. ジャカルタ
インドネシアの政治家,経済学者。 1922~32年オランダ留学中に,留学生の進歩的政治組織インドネシア協会の会長として活躍した。帰国後対オランダ非協力運動を展開,逮捕され,34年西イリアンに流刑。 42年日本軍に釈放され,日本軍政に協力,プートラ運動 (民衆総力結集運動) の指導者として独立運動を展開した。 45年8月 17日の独立宣言にはスカルノとともに署名し,副大統領に就任。 48~49年首相兼国防相,49年のハーグ円卓会議に首席代表となり,共和国の主権回復とともに再び副大統領として,また 49~50年首相兼外相として最高指導者の一人となった。しかし,スカルノの「指導される民主主義」 (→指導制民主主義 ) の提唱とは対立し,56年副大統領を辞任,60年『民主主義宣言』を書いて,スカルノを批判。九・三〇事件以後は新体制を支援。しかし,76年9月反政府文書署名事件で,スハルト大統領に謝罪を表明した。著書に"The Co-operative Movement in Indonesia" (1957) がある。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハッタ」の解説

ハッタ
Mohammad Hatta

1902~80

インドネシアの政治家。西スマトラ州出身。約10年のオランダ留学中から民族主義運動を指導。1932年に帰国し国民教育協会で活躍したが,34年逮捕,流刑された。日本軍政下で政治活動に復帰,45年スカルノとともに独立宣言に署名,副大統領に選出された。56年スカルノの政治路線に反対して副大統領を辞任。今も政界,思想界に学識と人柄を慕う人が多い。

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百科事典マイペディア 「ハッタ」の意味・わかりやすい解説

ハッタ

インドネシアの政治家。オランダ留学中から独立運動を始め,スカルノと並ぶ最高指導者となった。第2次大戦後副大統領となったが,西欧民主主義的な政治理念を主張してスカルノと対立,1956年辞任。

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世界大百科事典(旧版)内のハッタの言及

【パルティンド】より

…その後,釈放されたスカルノを党首に迎えて勢力を伸ばしたが,再び政庁の弾圧を受け,36年に解散した。なお,国民党の解散に反対した少数派は,教育によって人民の政治意識の成熟をはかることが独立への課題であるとして,オランダ留学帰りのシャフリル,ハッタを中心にインドネシア国民教育協会を結成したが,このときの亀裂が,45年の独立革命以降も,共和国内のいわば土着派と親西欧派の対立に尾を引いた。【押川 典昭】。…

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