日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニコライ(2世)」の意味・わかりやすい解説
ニコライ(2世)
にこらい
Николай Ⅱ/Nikolay Ⅱ
(1868―1918)
ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝(在位1894~1917)。アレクサンドル3世の長子として生まれる。保守主義者ポベドノースツェフに教育されて、その影響を受けた。1891年(明治24)皇太子として日本訪問中、警護の巡査に額を斬(き)られて負傷した(大津事件)。94年イギリスのビクトリア女王の孫でヘッセン・ダルムシュタットの公女(結婚後アレクサンドラ・フョードロブナと改名)と結婚。夫婦間は愛情に満ち、よき夫であったが、のちに皇后がラスプーチンを登用するや、彼に政治に口出しするのを許すことになった。父帝の外交政策を継承し、フランスとの同盟を強化し、シベリア鉄道を完成させ、極東への進出を図ったが、日露戦争を引き起こして敗北した。1905年の革命によって「十月宣言」を発布するはめとなったが、革命が終息するやストルイピンを引き立てて革命運動を弾圧した。外交政策においてドイツと対立しイギリスに近づいたことから、第一次世界大戦に巻き込まれ、戦争中の17年3月退位を余儀なくされた。ボリシェビキが政権をとったあと、18年4月にエカチェリンブルグ(ソ連時代はスベルドロフスク)に家族(皇后と4人の子供たち)とともに幽閉され、地方のボリシェビキによって射殺された。2000年8月ロシア正教会は、ニコライ2世とその家族を「受難者」として列聖した。
[外川継男]
『保田孝一著『ニコライ2世と改革の挫折』(1985・木鐸社)』