ニコライ2世(読み)ニコライにせい(英語表記)Nikolai II Aleksandrovich

改訂新版 世界大百科事典 「ニコライ2世」の意味・わかりやすい解説

ニコライ[2世]
Nikolai Ⅱ Aleksandrovich
生没年:1868-1918

帝政ロシア最後の皇帝。在位1894-1917年。革命家に殺された祖父アレクサンドル2世の死に立ち会い,父アレクサンドル3世につづいて専制護持のイデオローグポベドノスツェフの教育を受けた。皇太子時代の1891年の日本旅行の際,大津で巡査に斬りつけられた(大津事件)。性格は弱く,治者としての器量に欠けるといわれる。94年,26歳の若さで即位し,同時にヘッセン・ダルムシュタット侯の娘アリックスと結婚,皇后アレクサンドラ・フョードロブナとした。96年5月14日モスクワで戴冠式が行われたが,4日後ホディンカ原で祝賀の民衆が押しあってつぶされ,多数の死者を出す事故が起こった。治世の初めには父帝の政策を継承し,蔵相ウィッテを重用したが,世紀が改まるあたりで,社会の矛盾が噴出すると,ウィッテをしりぞけ,ベゾブラーゾフなる山師的な軍人を取り立てて極東での冒険政策を推進した。この結果,日露戦争をまねいた。

 1905年革命が起こると,ウィッテを呼びもどし,戦争の終結に当たらせ,また10月にはゼネストの中で,ウィッテの献策を入れ,〈十月宣言〉を発し,市民的自由とドゥーマ(国会)開設を約束した。しかし,これによって必ずしも国内安定が得られないため,すぐにウィッテをしりぞけ,専制権力を温存する憲法を公布し,開設されたドゥーマには敵意を抱きつづけた。その後はストルイピン首相を重用したが,その強いイニシアティブには不快感をもち,彼の政策が行きづまると,極度に冷淡になった。皇太子アレクセイが血友病のため,皇后がラスプーチンを皇帝一家の友としたことが,1912年ドゥーマで問題にされると,皇后を擁護した。第1次世界大戦に際しては,軍部と外交担当者の進言どおり,対独宣戦に踏み切った。15年春,ドイツ軍に敗北し,〈大退却〉を強いられると,責任者たる最高司令官ニコライ・ニコラエビチ大公を更迭し,自分が代りになるとの考えを表明した。これで大臣全体と衝突し,この時点以降,皇后とラスプーチンの影響下に完全に入り,〈大臣の蛙飛び〉と呼ばれる異常な人事を行った。流言飛語では,皇后とラスプーチンは肉体関係もあるなどとされていたため,皇帝の権威はさらに打ちくだかれた。

 17年に二月革命が起こると,鎮圧軍を首都に送り,自分も大本営よりツァールスコエ・セロ(現,プーシキン)にもどろうとしたが果たせず,3月2日プスコフで退位した。3月7日,臨時政府によって自由を剝奪され,8月シベリアのトボリスクへ流された。十月革命後,エカチェリンブルグへ移され,反革命軍による奪還を恐れたソビエト権力の命令により,18年7月16日に皇后および5人の子どもとともに殺された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニコライ2世」の意味・わかりやすい解説

ニコライ2世
ニコライにせい
Nikolai II Aleksandrovich

[生]1868.5.18. ツァールスコエセロ
[没]1918.7.16/17. エカテリンブルグ
帝政ロシア最後の皇帝 (在位 1894~1917) 。アレクサンドル3世の長男。 K.P.ポベドノスツェフの訓育を受け,皇帝権不可侵の思想を吹込まれた。 1894年ヘッセン=ダルムシュタット公女アリス (ロシア名アレクサンドラ・フョードロブナ) を妻に迎えた。皇太子アレクセイが血友病であったことが,怪僧 G.E.ラスプーチン皇室国政への干渉を許した。即位当初はロシア資本主義の確立期にあたり,経済的繁栄を誇ったが,20世紀に入る頃から不況が進み,諸列強との帝国主義的対立も顕著となった。そうしたなかで労働運動は激化農村にも,ロシア国内の被抑圧民族にも動揺は拡大。ツァーリ政府はそれらを軍隊の力で弾圧する一方,対外進出を行うことによって,ブルジョアジーの経済的野心を満たし,国民の不満をかわそうとした。ニコライはすでに 91年,インド,中国,日本などを歴訪してアジアへの関心を示していたが (このとき日本で大津事件に遭遇) ,91年から始ったシベリア鉄道の敷設を続ける一方,95年の対日三国干渉,清国からの東清鉄道敷設権の獲得 (96) ,朝鮮への勢力拡大などによって極東へ進出,ついに日露戦争 (04~05) を引起した。他方,極東での相次ぐ敗戦,戦費の増大による大衆生活の圧迫は国内でも「血の日曜日」事件に始る 1905年の革命を招き,ニコライは S.Y.ウィッテの起草になる「十月宣言」を出してブルジョアジーに譲歩を余儀なくされ,また P.A.ストルイピンの農業改革を行なって,富裕な農民を創出,革命の防波堤にしようとした。日露戦争敗北後はバルカン半島への進出を企て,第1次世界大戦に突入。 15年からは軍部の反対を押切ってみずから戦線を指揮したが,戦況を好転させることはできなかった。 17年3月8日 (旧暦2月 23日) ,ペトログラードにおける暴動 (→二月革命) ののち,同年3月 15日 (旧暦2日) 退位。 300年にわたるロマノフ朝支配 (ツァーリズム) は崩壊した。家族とともに逮捕され,トボリスクからエカテリンブルグへ流され,ウラル地方ソビエトの決定により銃殺された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ニコライ2世」の解説

ニコライ2世(ニコライにせい)
Nikolai Ⅱ

1868~1918(在位1894~1917)

帝政ロシア最後の皇帝。即位直後の演説で代議制の陳情を「無意味な空想」として退けた。初めは大臣たちの助言に従っていたが,20世紀初め極東政策で自立的になった。皇后アレクサンドラは強い女性で,息子アレクセイの血友病ゆえに宗教家ラスプーチンを引き入れ,皇帝も影響を受けるに至った。この傾向が強まったのは第一次世界大戦中で,皇帝はラスプーチンと皇后の圧力で専断的にふるまった。1915年には最高軍司令官にもなった。二月革命が起こると,退位させられ,エカチェリンブルク幽閉中家族とともに銃殺された。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

20世紀西洋人名事典 「ニコライ2世」の解説

ニコライ2世
Nikolai Ⅱ・Aleksandrovich


1868 - 1918
ソ連国籍。
元・ロシアロマノフ王朝皇帝。
ロシア出身。
帝政ロシア最後の皇帝(1894〜1917年在位)で、1891年皇太子として訪日中大津事件にあう。父アレクサンドル3世の専制護持の教育を受け外交政策を継承、フランスとの同盟強化、極東への進出を図るが日露戦争を起こし敗北。1905年革命で「十月宣言」を発布するが革命が終息するとストルイピンを用いて革命運動を弾圧、第一次大戦中に退位を余儀なくされボリシェビキが政権を掌握すると’18年シベリアに幽閉され、後射殺される。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「ニコライ2世」の解説

ニコライ2世

生年月日:1868年5月18日
帝制ロシア最後の皇帝(在位1894〜1917)
1918年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のニコライ2世の言及

【大津事件】より

…湖南事件ともいう。ウラジオストクのシベリア鉄道起工式に出席する途中,軍艦7隻で日本に東遊したロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)は琵琶湖遊覧の帰途,大津町(現,大津市)で警衛中の滋賀県巡査津田三蔵に斬りつけられ頭部に負傷した。津田はロシア皇太子来日を日本侵略の準備とする風説を妄信し犯行におよんだものであるが,政府が配置した警察官が国賓の殺害を企てたことは,政府の大失態であり,日本の朝野はパニック状態におちいった。…

【ロシア革命】より

…1903年になると,1890年代の成長の基盤であった南ロシアの鉱山・工場地帯全域に長期かつ深刻なゼネストがおこった。 このような学生運動,民族運動,農民運動,労働運動が噴出して,体制が動揺する中で,皇帝ニコライ2世は90年代の成長政策の推進者蔵相ウィッテを退け,内相プレーベを重用して抑圧政策をとる一方,山師的人物の献策をいれて,極東での冒険政策をすすめ,1904年1月日露戦争に入り込んだ。この戦争は,国民にまったく不人気であり,かつロシアの軍事力,国力の欠陥を露呈した。…

【ロマノフ朝】より

…パーベル1世の短い治世からロシア革命までの百数十年間,ロマノフ家は多くの土地,工場,鉱山,宮殿,美術品などを所有する世界屈指の大富豪であり,アレクサンドル2世時代のように改革運動の先頭に立つこともあったが,国内の改革や革命の動きに対しては弾圧をもってのぞみ,国際的にはロシアはヨーロッパ反動の牙城と考えられていた。 最後の皇帝ニコライ2世は,1917年の二月革命の際,弟のミハイルに譲位したが,ミハイルは即位をためらい,3月4日,ニコライの退位勅書とミハイルの即位拒否の勅書が同時に公表され,ロマノフ朝は事実上消滅した。政権を握った臨時政府は,将来,新憲法によって帝政を復活する可能性もありうるとの立場をとったが,状況におされて9月に正式に共和国を宣言した。…

※「ニコライ2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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