ニイカップ場所(読み)にいかつぷばしよ

日本歴史地名大系 「ニイカップ場所」の解説

ニイカップ場所
にいかつぷばしよ

新冠川流域を中心に設定された場所(持場)。天保郷帳に「ニイカツプ持場之内」として「ニイカツプ」がみえる。「東蝦夷地場所大概書」によると西はアツヘツ(現新冠町と静内町の境界をなす厚別川)をもってサル場所に、東はシンヌツ(ニイカップ会所元から東へ一里の地点)をもってシツナイ場所に接し、場所内海岸部の路程は三里八町。ただし「場所境調書」によると、シツナイ場所との境界はもともとはシンヌツ西方のヲラリとシンヌツの間にあったという。また前述海岸部路程三里八町は古帳にみえる数値で、厚別あつべつ川の西岸からの計測値と思われ、東岸から測れば三里一町二〇間であった。ニイカップは古くはヒボクといった。「津軽一統志」の「松前より下狄地所付」には「ひぼく」とあり、狄おとな八郎右衛門の持分で、アツヘツとともに工藤金弥の商場であった。支配所持名前帳に「仁イ賀ツ府戸満前」とみえ、当地と戸満前(トママイ)鳥屋(鷹などの狩場)二ヵ所は工藤瀬兵衛支配。初めは知行を宛行われた家臣(工藤氏)自らが交易を行っていたが、しだいに請負人に任せる家臣が多くなった。一七三九年(元文四年)頃には「ニイカプ」は御用人工藤八良右衛門の預地で、産物縄や兎皮・鹿皮・狐皮など、交易には二〇〇石船がやってきて、運上金は「年々不同」であった(蝦夷商賈聞書)。「松前随商録」によると工藤平左衛門支配、運上金は「八両弐分安永年中卅両外ニ五両」とみえ、シコツ十六場所のうちとしている。一七八〇年代には工藤平右衛門の給所で、乙名ノンコタマ、小使ノシヤバウシ、請負人は松前の阿部屋伝吉、運上金は三〇両(蝦夷草紙別録)。この頃の運上屋は一戸(蝦夷拾遺)。「東蝦夷地道中記」にも工藤平右衛門給所(運上金五〇両)とあり、一七九九年(寛政一一年)の東蝦夷地上知まで、当場所は工藤氏の世襲場所であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報