トルコの大学(読み)トルコのだいがく

大学事典 「トルコの大学」の解説

トルコの大学
トルコのだいがく

トルコにおける大学の起源は,トルコ共和国(1923年~)の前身であるオスマン帝国(1300年頃~1922年)の時代まで遡る。オスマン史上「タンズィマート(トルコ)(組織化の意)」と呼ばれる,社会の全面的な刷新を目指した時代(1839~76年)に計画され,開校と閉鎖を繰り返しつつ,最終的に1900年に「帝国大学(トルコ)(ダーリュリュフュヌーヌ・シャーハーネ(トルコ))」の名で再開された高等教育機関が,現在のイスタンブル大学(トルコ)(イスタンブル・ユニヴェルシテスィ(トルコ))の直接の前身である。

 オスマン帝国には,イスラーム教徒だけでなく,キリスト教徒やユダヤ教徒も多数居住し,学校教育は原則として宗教共同体ごとになされていた。たとえばイスラーム教徒の場合,女子を含めほぼすべての児童が通い,クルアーンの暗唱と読み書きを学んだメクテブ(マクタブ)と,イスラームの専門家であるウラマーを養成するためのメドレセ(マドラサ(イスラーム))が存在した。正教徒やアルメニア教会信徒やユダヤ教徒の場合も,規模の差こそあれ,初歩的な学校と宗教の専門家を養成する機関を独自に有していた。また,とくに19世紀初頭以降,アメリカやフランスなどの宣教団による学校が設立され,そこにイスラーム教徒が通うこともあった。

 こうしたさまざまな学校がすでに存在するなか,新しい時代に対応するために,官僚・軍人・法曹・医師・教師・技師などの養成と,その準備教育を主眼とした各種の新式学校が国家主導で設置された。それはまず軍事部門から開始され,海軍技術学校(1776年設立,以下同),陸軍技術学校(1793年),軍医学校(1827年)陸軍士官学校(1834年)が設立された。そして1830年代末期には,非軍事の官僚養成校も設置されるようになった。

 1839年にギュルハネ勅令が公布され,タンズィマート改革が開始されると,教育は改革の重要な一部と見なされた。その大綱は,1845年に設置された臨時教育審議会によって構想され,非軍事の学校は小学校(スブヤン),中学校(リュシュディエ),大学(ダーリュリュフュヌーン,「諸学の館」の意)の3段階とされた。ただしこの時点では,これからつくられるべき大学について,臣民であれば宗教・宗派を問わず受け入れると明記されただけであり,学部や教授科目や学位などについては何も規定されなかった。

 1846年には帝都イスタンブルで校舎の建設も開始され,47年には,将来大学で教鞭を執る人材を養成するべく,メドレセの学生がパリに派遣された。校舎建設は遅々として進まなかったが,1863年には完成していた教室の一部において,陸軍技術学校出身者による物理と化学の講義が開始された。その後,博物学や歴史も講じられたが,1865年,この校舎は大学には広大に過ぎるとの意見により財務省に譲渡された。大学には別の校舎が用意されることになり,その建設も始められたが,行政学校(トルコ)(1859年設立の地方官僚養成校)の校舎に一時的に移転したところ,そこで火災が発生した。行政学校は他所に移って教育を継続したが,校舎建設中の大学は閉鎖を余儀なくされた。

[大学の成立]

こうしたなか,1869年に,メドレセと軍事諸学校を除く学校教育を体系的に規定した公教育法(トルコ)(全198条)が制定された。同法において,大学には「オスマン大学(トルコ)(ダーリュリュフュヌーヌ・オスマーニー(トルコ))」という名称が与えられ,学部(文・法・理),教授科目,入学資格,学位,大学評議会などが詳細に規定された。公教育法のおよそ4分の1にあたる50条が大学に関する条文であったことから,大学再開への期待がうかがわれる。

 翌1870年に大学は再開されたが,73年(あるいは74年)に,おそらくは中等教育を修了した学生と専任の教員の不足のため閉鎖された。そのため1874年に,フランス語で西欧式の中等教育を行っていたガラタサライ校(トルコ)(1868年設立)の内部に,法曹と技師を養成するための課程が設けられ,これがときに「大学」と呼ばれることもあった。しかし,1880年に設置された法務省附属の法学校(トルコ)によって,ガラタサライ校の法曹養成課程は翌81年に吸収された。技師養成課程もこのとき閉鎖されたようである。

 このように,「大学」の名をもつ教育機関は,長期にわたって継続的な教育を行うことができなかったが,まさにこの法務省附属法学校に加えて,1867年に軍医学校の内部に設置され,のちに独立した医学校(トルコ),77年に専門課程が加えられた行政学校(トルコ),83年に陸軍技術学校が再編された技術学校(トルコ)などが,高度専門職に就く人材を養成していた。そして1900年,第34代アブデュルハミト2世(在位1876-1909)の即位25周年を記念して,こうした高等教育機関を基礎に大学が再開された。「帝国大学(トルコ)(ダーリュリュフュヌーヌ・シャーハーネ(トルコ))」と称された同校は,当初,法学校と医学校を帝国大学の学部として扱い,さらに行政学校の校長が帝国大学の学長を兼任するという形態をとった。独自の学部として(イスラーム)神・理・文の各学部が設けられたが,中心は,1908年の青年トルコ革命後に正式に学部となった法学部医学部にあった。なお,1914年にはメドレセ改革にともない神学部が廃止され,同年女子部が開設された。

 第1次世界大戦によりオスマン帝国が崩壊し,トルコ共和国(1923年~)が建国されると,メドレセは全廃された(1924年)。オスマン時代に新式学校として設けられた高等教育機関のいくつかは,共和国期に大学が設立される際,その母体となった。まず帝国大学は,1924年に共和国大学(トルコ)(ジュムフリエット・ダーリュリュフュヌーヌ(トルコ)),1933年にイスタンブル大学(トルコ)(イスタンブル・ユニヴェルシテスィ(トルコ))に改組された。大学の呼称も,トルコ語からアラビア語ペルシア語の要素を可能な限り減じようとする文化政策によって,フランス語に由来するユニヴェルシテ(トルコ)とされた。次いで陸軍技術学校を淵源とする技術学校(1883年設立)は,1944年にイスタンブル工科大学(トルコ)(イスタンブル・テクニク・ユニヴェルシテスィ(トルコ))に改められた。そして行政学校は,共和国の首都がアンカラとされたことにともない,1936年同地に移転し政治学校(トルコ)と改称していたが,1946年にアンカラ大学(トルコ)(アンカラ・ユニヴェルシテスィ(トルコ))が設立されると,1950年にその政治学部として編入された。

[大学改革]

トルコでは,1960年,71年,80年,97年に軍によるクーデタないしは政治介入が起こり,政治的に不安定な時期が続いた。とくに1980年のクーデタでは,すべての政党の活動が停止された。参謀総長を議長とする国家保安評議会が全権を掌握するなか,翌81年に高等教育協議会(トルコ)(YÖK)が設置され,すべての国立大学の学長と学部長の任免権がこの協議会に与えられるなど,大学への統制が強まった(この時点で私立大学は存在せず)。1983年に政党活動が解禁され,民政に移管したが,同協議会は現在も高等教育を統制している。

 他方,1970年代以降のトルコは,急速な大学拡張の時代を迎えていた。アメリカの宣教団によって1863年に設立された私立ロバート・カレッジ(トルコ)が,1971年に国立ボアジチ大学(トルコ)に改組されたのを皮切りに,73年から78年にかけて10校,82年に8校,87年に1校,そして92年には一気に21校の国立大学が新設され,ほとんどの県に国立大学が存在するようになった。また,1984年には最初の私立大学であるビルケント大学(トルコ)がアンカラで開校した。私立大学は,90年代後半以降,国内の巨大財閥や各種の財団などによって,とくにイスタンブルで多数新設された。2015年現在,国立109校,私立76校を数えるに至っているが,こうした急激な大学拡張にともない,学生の平学力の低下,国立・私立間の学費の格差,有名教員の私立大学への引き抜きといった問題も生じている。

 トルコはEU未加盟だが,エラスムス計画には参加しているため,ヨーロッパ諸国との学生の交流は盛んである。また,中東工科大学(アンカラ)やボアジチ大学など,英語による教育を実施し,国際的に評価されている大学も存在する。他方で,テュルク系諸語を母語とする中央アジア諸国からの留学生も多く受け入れている。国家自体と同様,トルコの大学は,さまざまな文化圏の結節点として機能していると言えよう。
著者: 長谷部圭彦

参考文献: 長谷部圭彦「オスマン帝国の『大学』-イスタンブル大学前史」『大学史研究』25,2013.

参考文献: M. Tahir Hatibogˇlu, Türkiye Üniversite Tarihi 1845-1997, Ankara, 1998.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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