サハ(民族)(読み)さは(英語表記)Саха/Saha

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サハ(民族)」の意味・わかりやすい解説

サハ(民族)
さは
Саха/Saha

従来は「ヤクート人Якут/Yakut」とよばれていたが、現在は自称のサハを用いている。「ヤクート」という名はツングース語系の民族の呼び名である。東シベリアで、ブリヤートに次いで大きな民族。アルタイ語族チュルク語群に属し、人口はロシア連邦内で約30万(1994推計)。分布はレナ川中流域を中心として、東はコリマ川から、西はエニセイ川までのツンドラ、森林地帯に及ぶ。現在、この地域は広大なサハ共和国(ロシア連邦内)になっているが、人口の大半は首都ヤクーツクを中心としたレナ川中流域に集まっており、北方では他の民族と混ざって遊牧のキャンプが点在するだけである。サハの起源は南方にあり、10世紀から15世紀にかけて、今日の場所に移動してきたことが知られている。人種的形質のタイプとしては、長い顔で細い鼻をもった者(中央アジア型)と、広い顔で平たい鼻をもった者(バイカル型)とがいるが、概してモンゴル的な顔だちをしている。

 主生業は牛・馬の牧畜である。レナ川中流域のサハは牛・馬を飼う牧畜民のなかでは最北端に位置し、それより北に散在するサハはエベンキチュクチとともにトナカイ飼養に従事している。狩猟・漁労も重要な生業で、とくに家畜をもたない貧者は、漁労中心の生活を営んでいた。ロシア人との接触以後は農耕が導入され、とくに比較的南部では、定着農耕民となる者も出現した。食物としては乳製品魚類がもっとも重要で、穀物と肉がそれに次いだ。住居は独特の木造家屋で、全体が長方形で屋根は平らで、壁には丸太の上から泥土が塗られ、冬には雪が積まれた。

 社会は、まず部族に分かれ、さらに各部族が父系氏族に分かれていた。氏族外婚は厳守され、婚資の制度もあった。しかし、ロシア人が進出してきたころには、氏族内の平等性はすでになく、富者(トヨンtoyon)と貧者とに分解しており、トヨンたちはウルスulus、ナスレグnaslegといった氏族連合の長となって、ロシア帝国の統治の一端を担っていた。宗教は、ロシア人の進出以来ほとんどがギリシア正教に改宗していたが、シャマニズム(シャーマニズム)、主神ウルウ・トヨンUluu-toyonを中心とした伝統的な信仰、儀礼も残されていた。サハは17世紀にロシア帝国に征服されて以来、表面的にはその支配に順応し、ソ連時代にもヤクート自治共和国は民族自治共和国としてもっとも成功した例とされていたが、1980年代末より民族運動が高まり、ソ連崩壊とともにロシア連邦を構成する共和国に格上げされ、名称も「サハ共和国」と変更された。

[佐々木史郎]

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