コリニー(英語表記)Gaspard Ⅱ de Coligny

改訂新版 世界大百科事典 「コリニー」の意味・わかりやすい解説

コリニー
Gaspard Ⅱ de Coligny
生没年:1519-72

フランス軍人。貴族シャティヨン家の出身。父親は武人元帥,母親は名門モンモランシー家の出。元帥アンヌ・ド・モンモランシーは叔父に当たる。カトリック教徒として育てられ,武人としてイタリア戦争に加わり,フランス提督として名声を博した。サン・カンタンの戦(1557)でスペイン軍に捕らえられ,虜囚生活中1559年に回心,カルバン派教徒となった。以後,コンデ親王ルイ2世と共に,新教徒の領袖として重きをなし,宮廷でも影響力を行使した。兄のオデOdet(1517-71),弟のフランソア,François(1521-69)も新教に帰依し,シャティヨン3兄弟として知られる。69年コンデ親王ルイの没後は,新教徒の文字通りの総帥として,ギーズ一門と対立した。シャルル9世の信任をうけ,ネーデルラント進出による新旧両派の和解を図ったが,王母カトリーヌ・ド・メディシスやギーズ公の反発をかい,72年サン・バルテルミの虐殺犠牲となった。
ギーズ家 →コンデ家
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コリニー」の意味・わかりやすい解説

コリニー
Coligny, Gaspard de Châtillon, Comte de

[生]1519.2.16. シャティヨンシュルロアン
[没]1572.8.24. パリ
フランスの軍人,提督。モンモランシー公の甥にあたる。ユグノー戦争前半期におけるユグノー指導者。 1557年サンカンタンをスペイン軍から死守したが,降伏をすすめられて 59年まで捕虜生活をおくる。その間にカルバニスムに改宗。サンジェルマン平和条約 (1570.8.8.) 以後は国王シャルル9世の信任を得た。コリニーは国王を対スペイン戦争に引入れることに努力したが,母后カトリーヌ・ド・メディシスはこの戦争を望まず,ユグノーの指導者たちの抹殺を国王に説得し,72年8月 23日から 24日にかけてサン=バルテルミの虐殺が敢行された。 24日の夜明け,コリニーは襲撃を受け,この虐殺の犠牲者となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コリニー」の意味・わかりやすい解説

コリニー
こりにー
Gaspard de Coligny
(1519―1572)

フランスの提督。ユグノー教徒の指導者。カトリック信仰のもとで育ち、国王アンリ2世の信任を得て提督となり、ピカルディー総督として北からのスペイン進出の撃退に努めた。兄オデOdet(1517―71)の影響を受けて1559年にユグノーに改宗。宗教戦争が始まると、ユグノー派の首領として行動し、ジャルナックやモンコントゥルの戦いでは敗れたが、ギエンヌラングドックでは勢力を挽回(ばんかい)した。サン・ジェルマンの和議(1570)のあと宮廷に復帰。国王シャルル9世をスペインとの国民戦争に引き入れようと画策したが、政敵ギーズ公アンリの手先の銃撃を受けて負傷、九死に一生を得た。その直後サン・バルテルミーの虐殺の最初の犠牲者となった。

[志垣嘉夫]

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百科事典マイペディア 「コリニー」の意味・わかりやすい解説

コリニー

フランスの軍人,プロテスタント派の首領。名門モンモランシー家の傍系で,宗教改革期に改宗,カルバン派教徒に。ユグノー戦争の指導者として活躍。フランス海軍提督の職にあったが,対スペイン強硬策を主張してカトリックと対立,1572年サン・バルテルミの虐殺の犠牲となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「コリニー」の解説

コリニー
Gaspard de Coligny

1519〜72
フランスの軍人。ユグノーの指導者
カトリック教徒の首領ギーズ公アンリや太后カトリーヌ=ド=メディシスと対立し,サン−バルテルミの虐殺で殺された。

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世界大百科事典(旧版)内のコリニーの言及

【サン・バルテルミの虐殺】より

…フランスは1562年以来ユグノー戦争に突入していたが,70年ごろより新旧両派の抗争は小康状態にあり,その象徴として,新教派の総帥アンリ・ド・ナバール(のちのアンリ4世)とシャルル9世の妹マルグリット・ド・バロア(マルゴ姫)との結婚契約が成立し,8月18日パリで盛大な婚儀が行われた。しかし,旧教派の首領アンリ・ド・ギーズHenri I de Guiseは,新教派の重鎮コリニー提督の国政への影響力増大を嫌い,提督の暗殺を企てたが,これに失敗(8月22日),ユグノー派の総反撃を恐れ大量殺戮へと走った。この計画に王母カトリーヌ・ド・メディシスが荷担していたことは明らかだが,国王シャルル9世は最後の土壇場で計画への同意を余儀なくされたものと見られている。…

※「コリニー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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