つがる

改訂新版 世界大百科事典 「つがる」の意味・わかりやすい解説

つがる[市]

青森県西部の市。2005年2月木造(きづくり)町と稲垣(いながき),柏(かしわ),車力(しゃりき),森田(もりた)の4村が合体して成立した。人口3万7243(2010)。

つがる市北東部の旧村。旧西津軽郡所属。人口5120(2000)。津軽平野北部,岩木川西岸に位置し,耕地が75%近くを占める。近世以前はほとんどがアシの茂る低湿地であったが,1681年(天和1)に津軽藩直営の開拓事業が行われ,98年(元禄11)ころにはほぼ全村域が開拓された。しかし,その後も洪水冷害にしばしば見舞われ,幾度か廃村,開村を繰り返した。1918年に岩木川,27年に山田川の大規模な河川改修工事が行われ,34年から68年にかけて国営西津軽地区灌漑排水事業が行われ,県下有数の米どころとなった。

つがる市南東端の旧村。旧西津軽郡所属。人口5155(2000)。津軽平野中央部,岩木川西岸の沖積地にあり,耕地率は75%をこえ,水田リンゴ園になっている。かつてはアシの茂る湿原であったが,1662年(寛文2)津軽藩最初の直営新田開発により水田化され,広須新田と呼ばれた。県下では偏東風(やませ)の影響の少ない穀倉地帯で,自然堤防では明治初期からリンゴ栽培が行われ,中心集落の桑野木田には,1878年に植栽されたといわれるリンゴ樹がある。

つがる市中部の旧町。旧西津軽郡所属。人口1万9988(2000)。津軽平野西部,岩木川西岸を占め,町の西部は屛風山砂丘からなる七里長浜の単調な海岸線で日本海に臨む。岩木川西岸の平野部はかつては低湿な泥炭地で,17世紀後半に津軽藩4代藩主津軽信政が藩の直営事業として新田開発に着手し,以後200年にわたり,木造,金木,俵元の3新田が開発され,木造はその中心として発展した。明治に入って五所川原に郡役所が置かれ,1918年陸奥鉄道(のち国鉄(現JR)五能線)川部~五所川原間の開通とともに,津軽平野北部の中心は木造から五所川原に移った。平野部は津軽の穀倉地帯をなし,屛風山砂丘では国営開畑パイロット事業がすすめられ,スイカ,メロンを産する。北部には縄文晩期の亀ヶ岡遺跡(史),田小屋野貝塚がある。

つがる市北部の旧村。旧西津軽郡所属。人口5941(2000)。津軽平野北西部,岩木川下流西岸に位置し,十三湖南岸にあたる。村の西部は屛風山砂丘を隔てて日本海に面し,七里長浜と呼ばれる単調な砂浜が続く。水田地帯の大半は近世,津軽藩の新田開発によるものだが,腰切田と呼ばれる低湿田が多く,岩木川,山田川のはんらんや海水の逆流などによってしばしば凶作に見舞われた。1924年には県下で初めて小作組合が結成され,近代的農民運動の草分けの地としても知られる。48年から国営十三湖干拓事業が始まり,乾田化が進んだ。屛風山砂丘では72年から国営パイロット事業による開畑が行われ,スイカ,メロンなどの特産地となった。また77年から日本海岸に車力漁港の建設・整備がすすめられた。高山稲荷神社の境内に1889年に遭難したアメリカの帆船チェズボローの慰霊碑がある。

つがる市南端の旧村。旧西津軽郡所属。人口5116(2000)。津軽平野の西部に位置し,南西部は岩木山北麓の丘陵地,北東部は沖積地である。沖積地は寛文年間(1661-73)から元禄年間(1688-1704)にかけて弘前藩により開田され,気候条件にも恵まれて穀倉地帯となった。丘陵部には狄ヶ館(えぞがたて)溜池,小戸六(こどろく)溜池など水田灌漑用の溜池が多い。この地区の山田野は旧陸軍の演習地で,第2次大戦後に開拓された。丘陵部ではリンゴ栽培と畜産が盛んで,1964年には県の畜産指導所(現,県農林総合研究センター畜産試験場和牛改良技術センター)が置かれた。丘陵末端にある石神遺跡からは円筒土器などが出土し,森田歴史民俗資料館に陳列されている。JR五能線が通じ,五所川原市や弘前市の商圏に入っている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「つがる」の解説

つがる〔果物〕

青森県、長野県、岩手県などで生産されるリンゴ。早生種。果皮は薄桃がかった赤色。青森県りんご試験場(現在の青森県産業技術センターりんご研究所)が「ゴールデンデリシャス」と「紅玉」を交配させて育成した品種。1975年に品種登録。

つがる〔特急列車〕

JR東日本が運営する特急列車。秋田駅(秋田県)から青森駅(青森県)を結ぶ。2002年、八戸駅から弘前駅間で運行開始。2010年、現区間に変更。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報