弘前藩(読み)ひろさきはん

改訂新版 世界大百科事典 「弘前藩」の意味・わかりやすい解説

弘前藩 (ひろさきはん)

陸奥国弘前青森県弘前市)に藩庁をおいた外様中藩。津軽藩ともいう。中世,津軽地域に勢力を扶植した南部氏と北畠氏を,南部(津軽)為信が駆逐して津軽統一を成し遂げた(《津軽一統志》)。豊臣政権は1590年(天正18)の奥羽仕置の一環として,91年津軽に太閤蔵入地1万5000石を設定し,津軽為信に領知高3万石を安堵した(組屋文書,秋田家文書)。藩体制の成立過程で家中騒動が続発し,なかでも為信のあとの相続をめぐる大熊騒動は幕府に裁定がもちこまれた。1609年(慶長14)幕府年寄衆によって津軽信枚(のぶひら)の津軽仕置が正式に認められ(《津軽一統志》),信枚系統の血筋が代々藩主家を継承することに決定した。領知高は45年(正保2)の津軽知行高之帳によれば,津軽領4万5000石,ほかに上野国大館などに2000石を加え計4万7000石であった。蝦夷地警衛の功により,1805年(文化2)7万石,08年10万石の家格とされ,翌年6000石を分与して黒石藩1万石を立藩した。69年(明治2)戊辰の功により1万石を加封。

 2代信枚,3代信義は城下弘前の建設や家臣団への知行宛行(あておこない)を行い,藩制を徐々に整備していった。4代信政の代に入ると,成立期から進められていた津軽平野西北部下ノ切(旧五所川原市以北)地帯の新田開発が大規模に実施され(国日記),1687年(貞享4)の貞享之御竿元帳によれば,領内は村数634,石高26万1000石余に増加した。この検地は領内統一検地としては唯一のもので,本検地帳に基づいて貢租が決められた。信政の時代に藩体制はほぼ確立し,領内統治機構や廻米機構が整えられ,禄制(1679年に地方知行(じかたちぎよう)制から蔵米制へ移行)の転換など,藩主権力強化の政策が打ち出された。公役(くやく)では82年(天和2)の越後検地や翌年の日光東照宮修築普請役を遂行する(国日記)など,幕藩関係の円滑化に努めたが,87年烏山騒動に連座して,信政が閉門を命ぜられた事件(津軽歴代記類)もあった。信政以後,弘前藩では宝暦,寛政,天保の3改革を実施して藩財政の立直しと,支配機構の強化を図った。宝暦改革では乳井貢(にゆういみつぎ)が登用され,標付の発行や殖産など経済政策に目ざましいものがあったが,乳井の失脚にともなって失敗。寛政改革では,藩士を土着させるなど全国的にも珍しい政策が実施された。天保改革では漆木の植付けにみるべきものがあった(国日記)が,西南雄藩のような抜本的な体制改革に至らず幕末に至った。藩法では刑罰法が体系的に整備され,安永律,寛政律,文化律が編纂された。藩校は,国元に1796年(寛政8)に稽古館,江戸屋敷に弘道館が設置されて,藩士の子弟を教育した。

 1868年弘前藩では軍制改革を実施し,従来の軍制を大幅に近代化した(軍制御用留)。野辺地戦争を経て,箱館戦争では新政府軍の補給基地となった。71年弘前県,ついで青森県と改め,県庁を青森に移して弘前には支庁がおかれた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「弘前藩」の意味・わかりやすい解説

弘前藩
ひろさきはん

陸奥(むつ)国(青森県)津軽地方を領有した外様(とざま)藩。津軽藩ともいう。近世初頭の津軽は、南部(なんぶ)氏の支配下にあり、同氏の派遣した津軽郡代により支配されていた。弘前藩のおこりは、その郡代補佐の大浦為信(ためのぶ)が、南部氏の内紛に乗じて勢力を拡大し、津軽一円を手中に入れ、姓を津軽と改め、1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉より津軽4万5000石を安堵(あんど)されたときといえよう。為信は1600年(慶長5)には、徳川家康より上野(こうずけ)国勢多(せた)郡内に2000石を加増され、4万7000石を領有する大名となった。以来、弘前藩主として、為信、信枚(のぶひら)(信牧(のぶひら))、信義(のぶよし)、信政(のぶまさ)、信寿(のぶひさ)、信著(のぶあき)、信寧(のぶやす)、信明(のぶあきら)(のぶはる)、寧親(やすちか)、信順(のぶゆき)、順承(ゆきつぐ)、承昭(つぐあきら)と12代にわたり在封した。

 藩の表高(公称高)は1689年(元禄2)分知1000石を収公され、4万6000石(これ以前、黒石津軽家初代信英(のぶふさ)に5000石を分知したが、表高はかわらず)となり、1805年(文化2)蝦夷地(えぞち)警衛の功により7万石、1808年に10万石に高直しされた。翌年黒石津軽家に6000石を分知したが、蔵米(くらまい)で与えたので表高に変更がなく、1869年(明治2)承昭は、戊辰(ぼしん)戦争の軍功により賞典禄(ろく)1万石を与えられたが、この1万石は、同年の版籍奉還により制定された藩主の家禄に加えられたので、表高は変わらなかった。内高(実高)は表高よりかなり多く、1687年(貞享4)の総検地によると26万1831石余であった。

 当藩のおもなできごとを簡略に述べると、2代信枚は1611年(慶長16)居城を堀越より高岡(のち弘前と改称)に移し、城下町の建設をしたこと、4代信政はよく藩制の確立に努め、中興の英主と称されたこと、8代信明、9代寧親はよく天明(てんめい)の大飢饉(ききん)後の領内復興を果たしたこと、12代承昭は維新の動乱に勤王に決断し、そのあかしとして箱館(はこだて)戦争に大きな犠牲を払ったことなどがあげられる。1871年(明治4)廃藩、弘前県を経て青森県に編入。

[工藤睦男]

『『弘前市史 上(藩政編)』(1963/復刻版・1973・弘前市)』『工藤睦男「弘前藩」(『新編物語藩史 第1巻』所収・1975・新人物往来社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「弘前藩」の解説

ひろさきはん【弘前藩】

江戸時代陸奥(むつ)国津軽郡弘前(現、青森県弘前市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は稽古館(けいこかん)。津軽地域は戦国時代まで南部氏の支配下にあったが、郡代補佐の大浦為信(おおうらためのぶ)が南部氏の内紛に乗じて1588年(天正(てんしょう)16)までに津軽統一をはたした。姓を津軽と改め、90年に豊臣秀吉(とよとみひでよし)から津軽の支配を認められた。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、論功行賞で4万7000石を領有する大名となり、以後明治維新まで津軽氏12代が続いた。2代信枚(のぶひら)は1611年(慶長(けいちょう)16)に居城を堀越から高岡(のち弘前と改称)に移し、城下町が建設された。4代信政(のぶまさ)は新田開発を大々的に展開、内高(実際の石高)は87年(貞享(じょうきょう)4)の領内検地で26万1000石余にのぼった。1780年代に関東・東北地方を襲った天明の飢饉では8万余の餓死・病死者を出したが、続く寛政(かんせい)期に、藩士が自分の給地に帰郷して自立する藩士土着政策を実施して復興をはたした。一方、その頃からロシアの南下が顕著となったため幕府から蝦夷(えぞ)地警備を命じられ、1805年(文化2)にその功で7万石、08年には10万石に高直しを受けた。幕末の激動期は日和見(ひよりみ)的な態度に終始したが、最終的には勤王につき、箱館(函館)戦争では新政府軍の補給基地となった。71年(明治4)の廃藩置県により、弘前県を経て青森県に編入された。◇津軽藩ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「弘前藩」の意味・わかりやすい解説

弘前藩
ひろさきはん

津軽藩ともいう。江戸時代,陸奥国弘前地方 (青森県) を領有した藩。津軽為信が関ヶ原の戦いで東軍に加わり所領4万 5000石を安堵されたのに始る。慶長5 (1600) 年に 2000石を加増されて4万 7000石となった。初め堀越にいたが,同 15年弘前に移った。文化2 (1805) 年寧親 (やすちか) の代に高直しによって7万石,さらに同5年再高直しによって 10万石となった。同6年には親定に 6000石を分与して,元禄4 (1691) 年分与の 4000石と合せて支藩黒石藩 1万石を創設。明治2 (1869) 年承昭 (つぐあきら) は新政府から1万石を加増され 10万 4000石となり廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

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百科事典マイペディア 「弘前藩」の意味・わかりやすい解説

弘前藩【ひろさきはん】

津軽(つがる)藩とも。陸奥(むつ)国弘前に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は津軽氏。領知高は陸奥国津軽郡などで約4万6000石〜10万石。弘前城の外堀以内は国指定史跡,天守,二の丸の櫓3棟,南門,三の丸追手門などは重要文化財。
→関連項目弘前城陸奥国

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デジタル大辞泉プラス 「弘前藩」の解説

弘前藩

陸奥国、弘前(現:青森県弘前市)を本拠地として津軽地方を領有した外様藩。藩主は津軽氏。鉱山開発や良馬の生産で知られた。函館戦争では新政府軍の補給基地。弘前城は桜の名所として知られる。

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世界大百科事典(旧版)内の弘前藩の言及

【津軽ヒバ】より

…青森県の西半分を占める旧弘前藩の領内に生い茂るヒバを称し,美林をなす。陸奥(むつ)ヒバとも青森ヒバともいう。…

【牧】より

…のち三保野,四鎖野,広野,立崎野を併せて盛岡藩の13牧と称していた。弘前藩も昔から牧畜の盛んな土地で,枯木平牧など藩営の馬牧が5ヵ所あった。水戸藩では徳川光圀が1678年(延宝6),常陸国多賀郡大能村(現,高萩市)に牧を置き,牛馬を放牧して〈大能牧〉と名づけ,初めてオランダの馬12頭を入れて繁殖を図り,牧馬は400頭にもなり,牧の地域も多くの村にまたがって広い範囲に及んでいた。…

※「弘前藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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