E.A.T.(読み)いーと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「E.A.T.」の意味・わかりやすい解説

E.A.T.
いーと

1960~1970年代に活躍したアメリカの前衛芸術家組織。正式名称はExperiments in Art and Technology(芸術と科学技術実験)でアートテクノロジー融合を目的とした。組織は、1960年代初頭、AT&Tベル電話研究所に在籍していたエンジニアビリー・クルーバーBilly Kluber(1927―2004)がジャン・ティンゲリー、ジャスパー・ジョーンズ、アンディ・ウォーホル、ロバート・ラウシェンバーグ、ジョン・ケージといった当時の先端的アーティストと行ったコラボレーション母胎とする。

 1966年、クルーバーを中心にラウシェンバーグやパフォーマンス・アーティストのロバート・ホイットマンRobert Whitman(1935― )らが参加して結成された。1968年クルーバーは正式に代表に就任する。ニューヨークを拠点に、美術、ダンス、電子音楽、映像などにまたがる横断的な表現行為により、アートとテクノロジーを結ぶ多くの実験的な試みを行った。同様のグループとしては1960年代初頭にパリで展開された「視覚芸術探求グループ」(GRAV:Groupe de Recherche d'Art Visuel)の活動が挙げられるが、少し後に展開されたE. A. T. の活動はより大規模かつ組織的であった。また、1967年にマサチューセッツ工科大学に設置された先端視覚研究センターは、E. A. T. を前身とする。

 E. A. T. の手がけたプロジェクトの中でももっとも著名なのが、1966年ニューヨークのアーモリー(室内教練場)で開催された「九つの夕べ――演劇とエンジニアリング」である。これは10万ドルを費し、1万5000人を動員した大規模なイベントで、ラウシェンバーグやケージをはじめ約40名のアーティストが参加、ダンス、電子音楽、ビデオ作品などが披露された。ほかにも、ニューヨーク、ブルックリン美術館における「サム・モア・ビギニングズ」展の企画(1968)、ニューヨーク、インドアーメダバード東京ストックホルムテレックスで結んだ「ユートピアQ&A」(1971)などのユニークな活動を展開、最盛期には約4000人の会員を有した。1970年(昭和45)の日本万国博覧会ではペプシ館の基本デザインを手がけ、その影響は万博終了後も続き、メディア・アーティストの中谷芙二子(なかやふじこ)(1938― )は71年にE. A. T. 東京を設立して独自の活動を展開した。

 アートとテクノロジーの融合の試みはほかにもあるが、E. A. T. の活動はエンジニアのクルーバーが活動の中心を担った点が特徴である。クルーバーがこの運動に深く関わったのはテクノロジー礼賛の傾向に対する強い反発のためで、そのためE. A. T. は、アーティスト主導によってテクノロジーを「道具」として活用する従来の「アート・アンド・テクノロジー」とは一線を画し、グループ内ではアーティスト主導ともエンジニア主導とも呼べない特異な集団制作体制が取られた。パフォーマンスやコラボレーションの画期的な表現形態が生まれたのも、独自の制作体制と無縁ではない。同時代のポップ・アートにも大きな影響を与え、またその後のメディア・アートの先駆となったE. A. T. だが、ヒッピー・ムーブメントなど自然回帰の流れのなかで活動は停滞し、組織としての活動は70年代なかばに終焉する。メディア・アートが隆盛を迎えた90年代以降はその先駆者として再評価の機運が著しく、2003年(平成15)には東京のNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)でも本格的な回顧展が開催され、クルーバーも来日した。

[暮沢剛巳]

『NTTインターコミュニケーション・センター企画・編集『E. A. T. ――芸術と技術の実験』(2003・NTT出版)』

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