日本大百科全書(ニッポニカ) 「実験」の意味・わかりやすい解説
実験
じっけん
科学研究活動は、自然および社会(その一員としての人間を含む)の諸現象・諸行動を対象とし、対象を対象たらしめている仕組みや運動の法則性を解明し、対象をより深く認識する理論的活動である。実験はこの理論的活動の一環として、当該科学が対象とする研究対象に直接・間接に働きかけ、対象を理論的活動のなかに取り込んでくる実践的役割を担う。したがって、実験は、本来、単なる研究の手段や操作という狭いものではなく、理論的活動の不可欠の構成部分をなす。観察・観測・計測や発掘・探査・フィールド調査などデータ収集活動も実験的活動であり、自然科学のみに特有な活動ではないが、ここでは自然科学分野の実験について扱う。
科学研究活動は「理論」と「実験」とに分離できるものとする考え方もあるが、これは理論分野と実験分野の職業的分業の進展に目を奪われた錯誤である。論理的思考による「理論」的活動と手段や操作をもって対象に働きかける「実践」的活動が、ときによってどちらか一方に偏ることもあるが、対象を認識する活動そのものは、けっして手段や操作にとどまるものではなく、両者は統一されているものである。
さて、自然科学は単に科学者の頭脳のひらめきや直感のみでつくりあげられたものではなく、元来、自然に働きかける生産的実践を源泉として生まれ、発展してきた。自然を客観的に認識し、その真理性を検証するという自然に対する実践活動そのものは、そもそも生産的実践活動=労働から学び取られ、抽象されたものである。したがって、労働対象や労働手段またはその体系としての技術が、科学と深い相互作用を行うことはいうまでもない。つまり、新たな研究対象や実験手段の創造という物質的なものから、研究活動の方法や課題の設定、総合的視野など認識方法の発展までが、社会の歴史的発展の産物であり、豊かな認識の発展は技術を介して社会の歴史的・経済的発展に大きく影響を与える。この意味で自然科学は実験という通路を通して、しっかりと自然そのものと生産的技術に錨(いかり)を降ろしている。
科学のこうした性格に連なる実験の意義を初めて説いたのはR・ベーコンである。彼はいわゆるスコラ学と決別し、科学の三つの道として「経験」「実験」「証明」をあげた。有名な『大著作』Opus Majus(1266~1268)の第6部「経験の学」Scientia Experimentalisでは、「実験は理論を与え、理論は新しい帰結に導くもっとも重要な手段である」と説いた。また、15世紀末にレオナルド・ダ・ビンチは「吾人(ごじん)は種々の場合や種々の状況のもとで経験に相談しつつ、そこから一般的規則を引き出すことができる」として、自然を鋭く観察するとともに、生産現場での技術的課題にも鋭い分析の目を向けた。ダ・ビンチを育てたボッテーガbottega(工房)は、当時、金属加工、冶金(やきん)術、石工技術をはじめとする諸技術を集約的に駆使する一大生産工場であり、ダ・ビンチの活動の源泉となった。鋭い観察と精妙なスケッチに代表される彼の解剖学の流れは、その後ベサリウスの『人体の構造に関する七つの本(ファブリカ)』(1543)となって結実し、やがて心臓の容積と拍動数の測定を基礎にハーベーが血液循環を明らかにする(1628)。かくして解剖や測定という実験を不可欠な構成要素とする近代解剖学や近代生理学が登場してくる。
一方、16世紀におびただしい技術書が現れる。ビリングチオの『火工術』(1540)、アグリコラの『デ・レ・メタリカ』(1556)、ショッペル『工芸書』(1568)、ラメリ『種々の精巧な機械』(1588)、ベランツィオ『新機械』(1595)などである。こうした技術書の普及は学問を生産的実践との結合でとらえるという、いわば学問の実践性という新しい価値を明確な形で示した。これらは、神秘的、呪術(じゅじゅつ)的、秘教的な寓意(ぐうい)や象徴に満ちていた自然誌の記述を克服し、具体的な事物のかかわりを客観的にとらえる可能性を切り拓(ひら)いたものといえる。
マニュファクチュアという新たな生産形態がダ・ビンチの活躍した中世封建社会の末期に現れ、冶金術者、時計・航海用測定器械製作者、水車・風車をはじめとする機械製作者らは、その生産の過程で具体的事物を相手に試行錯誤を繰り返しつつ、経験的規則を意識的に記録した。こうした行為は、単なる観照的な観察から、対象に能動的に働きかける観測、観察、測定を含む自然認識の方法と手段を発展させることとなった。航海者や冶金職人らとの交流を行ったW・ギルバートが『磁石について』(「磁石、磁性体および大きな磁石である地球について。多くの議論と実験によって証明された新しい生理学」、1600)を著したのも前述の時代状況と深くかかわっていた。彼は磁石の小地球(テレラ)をつくってモデル化し、「多くの労力と徹夜と費用をかけて実行し証拠づけた一連の実験と発見」の論理的明晰(めいせき)性を示すことに成功した。これはガリレイ、ケプラー、デカルトら当時の科学者に大きな影響を与えた。
ガリレイは航海術の発達に促された天文学の新たな展開に、観測手段としての望遠鏡の意義を正しく位置づけた。また重要度を増し始めた機械に注目し、『レ・メカニケ』を講義し、てこの原理や浮力の原理を駆使しつつ、おびただしい実験(思考実験を含む)を行った。機械に束縛された運動ばかりでなく、自由落下や放物体の運動にも実験を取り入れた。対象たる機械や運動を要素に分解し、実験(思考実験を含む)に照らし理論的認識へと進むが、ふたたび機械の機能や運動の全過程のなかでそれを再構成して位置づける。かくして抽象された力学の総集編が『新科学対話』(1638)であった。ガリレイの研究を「要素論」の始まりとする考え方が根強くあるが、これは、自然を要素に分解し、自然に「拷問をかける」(実験する)彼の研究の前段部分しかみない誤った見方である。彼はその後に総合的評価を忘れてはいないのである。新しく登場した科学の実験的方法を単に操作としてしかみない実験への偏見から誤った見方が生み出されているといえる。
さて、ガリレイの後継者トリチェリらによって組織的実験(アカデミア・デル・チメント、アカデミア・デイ・リンチェイによる実験的活動)が開始される。一方で、F・ベーコンの『ノウム・オルガヌム』(1620)、『ニュー・アトランティス』(1624)、デカルトの『方法序説』(1637)などが著され、観察、経験、実践的活動とこれから得られる種々な情報の集約の意義が論じられ、客観的対象(自然)の理論的認識と実験の意義が明らかにされ始める。さらに、イギリスにおける「見えざる大学」Invisible Collegeとその後の王立協会における系統的な実験の蓄積が行われ、こうした諸活動の発展のうえに、ニュートンの『プリンキピア』(1687)、『光学』(1704)が現れ、科学における実験の本質的な役割が不動のものとなった。
18世紀に入ると、天文学における観測機器の向上、地球規模での測地学の発展をはじめ、静電気、熱学、気体化学などにおける定性的および定量的実験の蓄積をみる。とくにイギリスに始まる産業革命とその各国への影響は、自然科学を技術に深く関係づけるとともに、実験を通して新たな課題を科学に投げかけるものとなった。これを受けて19世紀には、未分化であった自然諸科学が個別の科学として成立し、固有の対象領域と方法を確立し始め、分化した科学に固有な熟練した方法の確立が求められるようになる。たとえばギーセンにおけるリービヒの近代的な学生実験室の創設にみられるように、実験そのものも専門分化の傾向をたどる。
20世紀に入って、研究対象は宇宙的規模のマクロな世界から素粒子のようなミクロな物質や遺伝子操作、医学、情報科学分野などその領域を飛躍的に拡大した。また、地球環境のようなグローバルな対象の総合的認識の必要性や新素材など新たに創製された物質群の研究、超伝導現象に代表される新たな環境の創製に伴う物質の挙動など研究対象のみならず固有の研究方法も飛躍的に拡大し、専門分化が進行した。
こうした自然科学の進展が、実験を構成する対象、手段(装置、機器、測定機器など)のシステム化、自動化、巨大化を引き起こし、それに専門の理論と熟練した研究者・技術者集団を必要とするようになった。また実験手段の体系が商品となり資本が介入し、分業化に拍車がかけられたといえる。
実験は、そもそも理論的活動の一環としてその目的に沿った実験対象と実験手段と研究者によって構成される。したがって目的に沿って、物質的な対象と手段(その体系)が物質的な整合性ばかりでなく、理論的認識のてことして組織されなければならない。そのために機器・装置やその体系そのものの理論と技術、感覚の延長としての測定機器の理論と技術、各種物質群を整合的に連動させるための工学に似た一定の実験理論と技術の体系が、熟練した研究者によって動員される。このことによって研究者は自然の条件をさまざまにコントロールし、対象の運動諸形態の認識に迫りうるのである。
今日では、発達したコンピュータによる複雑な運動諸形態のシミュレーションが可能となり、独自な「思考実験」分野を開拓しつつある。科学は実験を通して自然と直接交渉するものであるが、研究対象と手段はその時代の生産諸技術と相互作用し、多くはその歴史的制約を免れないことにも留意しておく必要がある。
[井原 聰]