日本大百科全書(ニッポニカ) 「芸術」の意味・わかりやすい解説
芸術
げいじゅつ
art 英語
art フランス語
Kunst ドイツ語
作品の創作と鑑賞によって精神の充実体験を追求する文化活動。文学、音楽、造形美術、演劇、舞踊、映画などの総称。芸術のジャンルを枚挙し分類する考えの一例として、フランスの美学者スリオの図表( )をあげておこう。円を7分割している一つ一つの扇形は感覚的素材の特殊性を表し、それに対応する芸術ジャンルが、外円(再現的芸術)と内円(非再現的芸術)の2層に分けて示されている。
[佐々木健一]
変動する芸術の概念
これらの芸術現象そのものは、洋の東西を問わず古代より存在したが、文学、音楽、美術などを包括して一つの領域とみる考え方、すなわち類概念としての芸術は、ようやく18世紀中葉の西欧において成立したものである。この近世的概念としての芸術はまず「美しいart」(フランス語ではbeaux-arts、英語ではfine arts、ドイツ語ではschöne Künste)と表現され、日本でも当初(明治5年以後)これを直訳した「美術」が芸術の意味で用いられた。西欧語の「美しいart」は芸術一般をさすとともに造形美術の意味でもあるが、日本語での芸術‐美術の区別が定着したのは明治30年(1897)以後であり、また最初に訳語としての「芸術」を用いたのは1883年(明治16)の中江兆民と思われる。しかし「藝術」という語(藝と芸は本来別々の二つの文字であるから、芸を藝の略字として用いるのは正しくない)そのものは、『後漢書(ごかんじょ)』にも用いられた古いことばであり、学問と技芸をさしていた。つまり、今日芸術と考えられているものはその一部分にすぎなかった。その点は西洋でも同様で、18世紀末には端的にartといって芸術をさすようになるが、artはもともとずっと広い領域を包摂していた。
そのartはラテン語のアルスars、さらにギリシア語のテクネーtechnēに由来し、これらのことばが学問と技術の二つの意味を内包していることは、漢語の「藝術」との顕著な近似性である。この技術的学問もしくは学問的技術の広い領域のなかで「藝術」の示す特殊性を、西洋の近世が美に認めたのは、芸術の本質を美と考えたからにほかならないが、この思想もけっして古来のものではない。古代ギリシア人は「ミメーシスmimēsisのテクネー」の概念によって、ほぼ芸術に対応する領域を定義していた。ミメーシスとは現実の事象の模倣もしくは再現のことであるから(たとえば肖像画を考えよ)、これはものをつくる仕事の様態によって芸術を規定する考えであり、それに対して近世的な「美しいart」は、つくられた作品のねらいとしての効果の面に芸術の本質をみているのである。すなわち、芸術概念そのものが歴史的に変化しており、一義的に定めることは不可能である。獲物を求めて行われた原始時代の呪術(じゅじゅつ)的芸術と、現代の前衛芸術の距離は遠い。近い過去を振り返っても、写真や映画が芸術であるか否かは論争をよぶ事柄であったし、現にたとえばコンピュータ・アートはそのような問題を構成している。新たな可能性の開拓とともに芸術の領域は変化し、それとともに芸術の概念も改定されてゆく。歴史的に変動するということは、どの時点をとってみても、芸術の領域が、近接する学問や「わざ」の領域との間に明確な境界線をもっていたわけでない、という意味でもある。
[佐々木健一]
芸術を芸術たらしめるもの
しかし、このような変動性やあいまいさのなかにあって、芸術を芸術たらしめているものとして、三つの契機をあげることができる。「わざ」と知と作品であり、これはテクネー‐アルス‐アートの主要語義に対応している。力点の置き方はさまざまであっても、この三者の総合が芸術である。芸術作品は人間の作物のなかでも、日用品や道具や機械などとは異なり、その目的は限定されていない。できる限り充実した体験を可能にするということが、芸術作品の使命である。したがって、それを生み出す「わざ」もまた、ある一定の目的を満足すればよいというようなものではなく、可能な限りの高みを目ざす冒険の精神に支えられたものである。そしてまた、芸術における知も、学問的な知のように概念的言語によって説明される種類のものではなく、あるいは実際の創作によって体得される「かん」や「こつ」のようなものであり、あるいはその作品の鑑賞によってしかみえてこない境地のようなものである。前者は「わざ」と知の一体となった能力であり、後者は作品が鑑賞者に対して繰り広げる個性的な世界である。
この作品世界は、ことばでとらえ尽くせないものであるからこそ、かえって、鑑賞者はそれをことばで語ってみたくなる。単なる感想から高度の評論に至る活動がそこに生まれてくる。しかし、どれほど語ってみても、なおかつ語り尽くされないものが傑作のなかにはある。したがって、特定の目的に鎖(とざ)されていない作品は、作者にとっても鑑賞者にとっても緊張の結晶であり、泉のように多様な意味を湧(わ)き出させるものとして、それはオリジナルな世界である。このオリジナルな世界は作者の個性を刻印した「作者の世界」だが、作者の意図を超えた可能性をはらんでいるという意味では、作者1人のものではなく、自律的な世界である。作者の意図を超えた意味を掘り起こすのは、鑑賞者の解釈である。したがって芸術作品の世界は、可能な限りの高みを目ざす芸術家の冒険の精神によって生み出され、最大限の意味充実を求める鑑賞者の本性的な志向性によって現実化されるものである。
このようにしてみえてくる作品世界の意味充実が、美である。芸術美は真や善や聖などのあらゆる価値を排除せず、それらの表現のうえに達成される作品存在の質であり、この意味においてのみ、美は芸術の本質であるといいうる。近世以後の芸術概念の中心を占めてきたのは作品であり、単に芸術といえば芸術作品を意味するのが普通だが、現代の前衛のなかには作品概念を攻撃する傾向が根強くある。それは作品を静的な対象と考えてのことであり、この批判の根底には、生き生きとした精神の現動性を重んずる現代思想共通の態度がある。この思潮は、作品概念を破壊するよりはむしろ、解釈の可能性をはらんだ作品世界の奥行を明らかにしつつある、といってよい。
[佐々木健一]
『佐々木健一著「芸術」(『講座美学2 美学の主題』所収・1984・東京大学出版会)』▽『渡辺護著『芸術学』改訂版(1983・東京大学出版会)』▽『新田博衛編『芸術哲学の根本問題』(1978・晃洋書房)』▽『山崎正和編『近代の芸術論』(1974・中央公論社)』