麻布桜田町(読み)あざぶさくらだちよう

日本歴史地名大系 「麻布桜田町」の解説

麻布桜田町
あざぶさくらだちよう

[現在地名]港区元麻布もとあざぶ三丁目・西麻布にしあざぶ三―四丁目・六本木ろつぽんぎ六丁目

麻布台地の西部ふる(新堀川)の開析谷におりる頂部から斜面にある年貢町屋。両側町で飛地三ヵ所がある。東が豊前小倉新田藩小笠原家上屋敷・長門長府藩毛利家上屋敷・下総小見川藩内田家上屋敷・京都町奉行松平邸、西が陸奥白河藩阿部家下屋敷・同湯長谷藩内藤家上屋敷、南が麻布本あざぶほん村・田安家眼科医行徳抱屋敷・賄組屋敷・麻布三軒家あざぶさんげんや町、北が西丸書院番組屋敷・麻布竜土材木あざぶりゆうどざいもく町など。飛地で渋谷御掃除しぶやおそうじ町の南東の分(現西麻布四丁目)は東が小普請組屋敷など、西が大番組松波邸など、南が表台所改役川上邸など、北は小普請組屋敷。今一ヵ所のこうがい橋東の飛地(現西麻布四丁目)は東が賄組屋敷など、西が麻布三軒家町飛地、南が下渋谷村麻布町入会百姓地、北が小十人組神谷邸など。さらに右の飛地の一部が元禄一二年(一六九九)道敷として収用、宝永元年(一七〇四)代地とされた笄橋東寄りの場所(現西麻布三丁目)は東が内藤家上屋敷、北が阿部家下屋敷。

もと江戸城内郭の霞ヶ関かすみがせき(現千代田区)付近にあった村落一部分。天正七年(一五七九)の村高が五七〇石だったが、慶長七年(一六〇二)頃御用地となり、当時桜田といっていた虎御門外に何石かを分けた。残りは最初溜池ためいけ端の坂の下に代地を受け、その後元和元年(一六一五)さらに御用地になって坂の上に引移ったところ、また諸家への支給地になったので駕籠訴をした。麻布の往還から三〇間ほど除いて住家を望むように命じられ、寛永元年(一六二四)麻布の原四町二反余に替地を受けて阿佐布あざぶ新宿を唱えたが、町名は桜田町とした。新宿の地名は、青山を通る相模への道を当初は当地に設定しようとしたことによると考えられる。百姓地へ町家作をしたため百姓ひやくしよう町と称する。霞ヶ関の時代に徳川家康の奥州・関ヶ原の陣には人馬・長持、大坂冬・夏の陣には人馬を差出した。徳川秀忠の鷹狩にも城内で役立ち、御鷹隠しの人馬も差出していた。移転後は寛永一一年から寛文一一年(一六七一)の間、本来麻布の土地だからと麻布村高の内として水帳に記載された。しかし当町に隠して年貢の割増し、人足扶持の横領などの不正があったため、町名主・百姓は麻布村名主百姓に対し訴訟を行い、古来桜田町は引地で麻布村高ではなかったと、年貢・諸役を麻布村とは別個にするよう寛文一二年に裁決があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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