鹿島・鹿島浦(読み)かしまなだ・かしまうら

日本歴史地名大系 「鹿島・鹿島浦」の解説

鹿島・鹿島浦
かしまなだ・かしまうら

鹿島灘は現在、東茨城郡大洗町の大洗岬から千葉県銚子市の犬吠埼までの海岸線の東方海域をさすが、「大日本地名辞書」は那珂湊(現那珂湊市)の沖合を含めて鹿島灘とよぶ。茨城県の東海は「常陸国風土記」ではすべて「大海」と記され、近世には常陸灘の呼称も散見する。現在の鹿島灘にほぼ相当する近世の呼称は鹿島浦であるが、その範囲は鹿島神宮の東方の海、あるいは鹿島郡東方の海をいっている。また「新編常陸国誌」は鹿島崎・鹿島浦・高天たかま浦の地名をあげ、鹿島崎については「鹿島郡ノ内下総ノ海上潟ニサシムカヘル所ヲ云」、高天浦については「鹿島宮ノ東ノ海辺ヲ高間原ト云、風土記ニ高松浜若松浜ナリトアル同地ナリ」と記す。

鹿島灘に対した人々の歴史は古く、すでに大洗町にある縄文後期の吹上ふきあげ貝塚では、岩礁性・海洋性漁労が実証されているが、一般には外海に向かっての原始・古代の遺跡はほとんどなく、鹿島灘の歴史は主として中世以降の製塩漁業・海運・海難などにみられよう。

〔製塩〕

県内の製塩は原始・古代には主として霞ヶ浦周辺が盛んで、すでに縄文後期末から土器製塩が行われ、「常陸国風土記」にも信太しだ浮島うきしま(現稲敷郡桜川村)行方なめがた板来いたく(現潮来町)に製塩に関する記事がある。しかし鹿島灘沿岸の古代製塩の史料はほとんどなく、わずかに「文徳実録」斉衡三年(八五六)一二月二九日条の大洗磯前おおあらいいそざきに神出現の記事に「初郡民有海為塩者」とあり、また「塩翁」ともあって海岸部の製塩が知られるのみである。中世では塙不二丸氏所蔵文書の治承五年(一一八一)三月日の源頼朝寄進状案、元暦元年(一一八四)一二月二五日の源頼朝下文などに「塩浜」「塩浜郷」とあり、多賀郡沿岸の製塩に関する史料が残るので、鹿島灘沿岸の製塩の存在も推測される。室町中期成立の「文正草子」には鹿島神宮の雑色文太が製塩によって財をなし、文正常岡という長者となる話が鹿島灘沿岸の「つのをかが磯」(現鹿島郡大野村角折)を舞台に描かれ、今も同地には文太長者ぶんたちようじや屋敷跡があり、伝説も残る。また中世の鹿島灘沿岸の製塩は生活必需品としての需給のみではなく、鹿島神宮との関連が強いと思われる。

近世初期から元禄―享保年間(一六八八―一七三六)にかけて沿岸各地で揚浜製塩が発達したが、後期には衰退する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報