九十九里浜(読み)くじゅうくりはま

精選版 日本国語大辞典 「九十九里浜」の意味・読み・例文・類語

くじゅうくり‐はま クジフ‥【九十九里浜】

千葉県北東部、太平洋に面する砂浜海岸。六町(約六〇〇メートル)を一里として、九九里あるとしたため呼ばれた。刑部岬から太東崎まで弓形の曲線をえがく。イワシの地引網漁業地として知られた。海水浴場としても有名。九十九里

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デジタル大辞泉 「九十九里浜」の意味・読み・例文・類語

くじゅうくり‐はま〔クジフクリ‐〕【九十九里浜】

千葉県東部の弧状の砂浜海岸。北は刑部ぎょうぶ岬から南の太東崎たいとうざきまで、長さ約60キロ。1里を6町(約600メートル)として99里あることによる名。

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日本歴史地名大系 「九十九里浜」の解説

九十九里浜
くじゆうくりはま

房総半島の太平洋岸に面し、夷隅いすみみさき町の太東たいとう岬から海上かいじよう飯岡いいおか町の刑部ぎようぶ岬まで、約六〇キロにわたり緩やかなカーブを描いて続く砂浜海岸。海岸中央部の九十九里町片貝かたかい付近では過去一〇〇年間に二〇〇メートルの前進があったが、北の飯岡海岸や南の一宮いちのみや海岸では浸食作用を受けている。後背にはおよそ三千年以来陸地化し、その間に砂の堆積と地盤の隆起を物語る三〇本の砂丘列を残す五―一〇キロの九十九里平野が広がる。慶長四年(一五九九)五月の廊之坊諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に九十九里とあり、名の由来は「古は六町を以て一里とす、百里に幾しと云ふことにて、九十九里の名あり」という(房総志料)。源頼義・義家あるいは源頼朝の奥州征伐の際に一里ごとに矢を立てさせて九九本になったという口碑があり、矢指やさしヶ浦の異称もある。内陸に親村である岡集落があり、海岸には親村の名を付けた納屋または浜集落があるが、納屋地名と浜地名は分布が南北に分れており、注目される。

〔産業〕

本多忠勝は慶長五年の関ヶ原の役に出陣するに際し、旧里見家の遺臣に対して留守中の不安があったが、このとき長柄ながら一ッ松ひとつまつ(現長生村など)長百姓上杉謙信の家臣の系譜をもつ木島武左衛門が、総代として袴を着して本多氏の帰城まで留守番をしたという。この功により武左衛門はじめ一ッ松郷長百姓一六名は慶長検地の時に塩場の所持権を与えられ、海岸線を支配する浦名主と認められ、袴摺浦名主の名を与えられた。この一六名は一ッ松郷海岸の二千三〇〇尋余を分割で所持し、天保一三年(一八四二)には三六名に増加していた。享保六年(一七二一)の東浪見村塩場名寄帳(秋葉家文書)では一千七八八尋余を三六名で、山辺やまべ四天木してぎ(現大網白里町)では七五〇尋を五四名で、海上うなかみ足川あしかわ(現旭市)では寛延四年(一七五一)に五四名で分割所持していた(岩井家文書)。また片貝村(現九十九里町)では享保一九年の検地で一千一三三尋余の塩場が確認され、長柄郡牛込うしごめ(現白子町)では五〇〇尋の塩場があり、年貢として六一俵を納入していたことが知られる(牧野家文書)。また延享元年(一七四四)の武射郡蓮沼村明細帳(川島家文書)では二〇〇俵の塩年貢であった。

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改訂新版 世界大百科事典 「九十九里浜」の意味・わかりやすい解説

九十九里浜 (くじゅうくりはま)

千葉県北東部,太平洋に面する砂浜海岸。北の刑部(ぎようぶ)岬から南の太東崎まで60km続く。矢指浦とも呼び,6町を1里として矢を砂浜に立てて測ったところ99里あったのが地名の起源という頼朝伝説が残る。臨海村落は3列で内陸から岡を語尾とする岡集落,その前面に新田を語尾とする新田集落,さらに南半は納屋,北半は浜を語尾とする納屋集落が並ぶ。九十九里浜は古くからイワシ漁で有名な地で,地引網は戦国末期に関西の漁民の技術を導入して始まったといわれる。関西の漁民は近世前期まで九十九里浜のイワシ漁,干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)生産の担い手であり,浜に納屋を建て,毎年一定の漁場へ出漁した。近世後期には地元の漁民の力が強くなり,大地引網の発明などによってイワシ漁は大きく発展し,佐藤信淵の《経済要録》によれば,1827年(文政10)には漁家4万余戸,網元300余家に及ぶ盛況で,日本一とうたわれた。明治以降地引網はあぐり網に変わる。現在の新田集落は元禄期(1688-1704)のイワシ漁の不漁期に納屋を取り払って開発され,納屋集落は文化・文政(1804-30)の豊漁期に漁民の居住地,干鰯・〆粕の製造小屋として成立したものである。九十九里浜の南半は大坂と浦賀の干鰯問屋の集荷圏であり,北半は江戸干鰯問屋の集荷圏であった。イワシ漁は近世以来周期的に好不漁を繰り返してきたが,現在は不漁期であり,また北の銚子漁港,南の大原漁港の漁船に圧倒されて漁は衰え,回復策として作田川河口に九十九里漁港をつくったが成果は上がっていない。

 内陸部は7~8列の砂堆列と湿地列からなる幅6~10kmの隆起海岸平野で,九十九里平野といわれる。北部には近世初期に椿海を干拓した干潟八万石があり,南部は1967年に完工した国営両総用水によって土地改良が進んでいる(椿海干拓)。椿海は海上・香取・匝瑳(そうさ)3郡にわたる入海で,町人請負により1670年(寛文10)に干拓に着手,翌71年に湖水を干上げ,72年から稲作を始めた。95年に検地が行われ,新田の総反別2741町余,石高2万0441石余が打ちだされ,18村が立てられた。現在は米作やトマト,メロンスイカなどの園芸作物の栽培が盛んである。

 太東崎や刑部岬からの眺望は非常によく,南部は南房総国定公園,中部は九十九里県立自然公園,北部は水郷筑波国定公園に指定されている。東京湾が汚染されたため代りの海水浴場として観光客を集めている。海岸には九十九里波乗り道路が通り,横芝海のこどもの国(2003年閉園)などのリゾート施設,国民宿舎,民宿なども多い。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「九十九里浜」の意味・わかりやすい解説

九十九里浜
くじゅうくりはま

千葉県中東部、太平洋に面する長大な砂浜海岸。北は旭(あさひ)市飯岡(いいおか)の刑部岬(ぎょうぶざき)から南はいすみ市岬町(みさきちょう)地区の太東崎(たいとうさき)に至る長さ約60キロメートルの弧状の砂浜である。源頼朝(よりとも)が6町を1里として矢をさし、99里あったところから命名されたという伝説がある。隆起海岸に潮流が砂を運んで形成されたもので、高さ4~6メートルの数列の砂丘がみられる。砂浜は広くて飛砂を防ぐためにクロマツが植えられ、防砂垣が築かれている。近世、紀州からイワシ地引網が伝えられて干鰯(ほしか)が生産され、浜に納屋集落が発達した。明治以後は、2隻の船が沖合いでイワシ網を巻く揚繰(あぐり)網が取り入れられたが、砂浜に漁船を出し入れするのに多大の人力を要した。九十九里町作田(さくた)川に掘込み式漁港(片貝港(かたかいこう))が建設され(1960)、集落をあげて船を押し出す「おっぺし」の風俗はみられなくなった。夏には各地に海水浴場が開設され、海浜レクリエーション施設や民宿が整備されてきたものの、太平洋の波が荒くなる8月に入ると海浜プールを利用する客が多くなる。海浜一帯は県立九十九里自然公園に指定され、南半部には九十九里有料道路が走る。

[山村順次]


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百科事典マイペディア 「九十九里浜」の意味・わかりやすい解説

九十九里浜【くじゅうくりはま】

千葉県の太平洋岸,北の飯岡から南の太東崎まで約60kmにわたる海岸。近世以降活況を呈したイワシ地引網を営む集落が発達,干鰯(ほしか)の一大産地となる。沿岸北半部の集落は浜,南半部の集落は納屋と呼ばれ(納屋集落),いずれも背後に鎌倉期に開発された岡集落がある。近年漁業は不振。海水浴場として賑わう。内陸部は九十九里平野と呼ばれる幅6〜10kmの隆起海岸平野で,砂丘地では畑作,低湿地では米作が行われ,近年は果樹園芸が盛ん。
→関連項目飯岡[町]太東崎東金街道房総半島

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「九十九里浜」の意味・わかりやすい解説

九十九里浜
くじゅうくりはま

千葉県東部,太平洋に面する北の刑部 (ぎょうぶ) 岬から南の太東崎に続く弓状の砂浜海岸。長さ約 60km。6町=1里 (旧制) で 99里あるところから命名されたと伝えられる。海食台の相対的隆起と波浪による漂砂の堆積により形成された。イワシの回遊が多く,戦国時代末から地引網漁業が始ったが,明治時代初期からあぐり網漁業と交代した。漁業の発展は海浜に納屋を常設させ,納屋集落をつくった。現在は海水浴場としてにぎわっている。 1935年九十九里県立自然公園に指定。浜の内側に九十九里道路が通る。

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事典・日本の観光資源 「九十九里浜」の解説

九十九里浜

(千葉県銚子市・旭市・匝瑳市・山武市・山武郡大網白里町・九十九里町・横芝光町・長生郡一宮町・長生村・白子町)
日本の渚・百選」指定の観光名所。

九十九里浜

(千葉県匝瑳市)
日本の重要湿地500」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の九十九里浜の言及

【網元】より

…後進地域においては何人かの個人による共同経営もありえたが,大部分は網元経営であったとみられる。 網元経営のやや具体的な理解のために九十九里浜の地引網経営を少しみよう。1780年(安永9)の佐藤信季の《漁村維持法》によれば,九十九里浜の地引網は総数200帖と称し,その盛大ぶりに驚いている。…

【上総国】より

…紀州栖原村の漁師角兵衛は,元和の初め外房千倉村付近に渡来し,1623年(元和9)ころ萩生村(富津市萩生)に移り,竹ヶ岡・萩生・金谷3ヵ浦の磯根でタイ漁の桂網を始めている。九十九里浜の地引網イワシ漁も,1555年(弘治1)南白亀浦(なばきうら)(長生郡白子町)に漂着した紀州人が漁法を伝えたのが創始といわれ(《房総水産図誌》),川津村矢の浦(勝浦市)では元和年間紀州からきた大甫七重郎が八手網(はちだあみ)を用いイワシ漁を始めたといわれる。1780年(安永9)に記した佐藤信季《漁村維持法》には九十九里浜の地引網数計200帖とある。…

【地引網(地曳網)】より

…後年の大地引網漁はほとんどこの方法による。近世期,イワシ漁業の大地引網の盛地は九十九里浜と肥後天草が名高く,漁船2艘,漁夫50~60人,引子100人を要するものもあった。九十九里浜の地引網漁は弘治年間(1555‐58)に紀伊漁民によって伝来されたもので,元禄~正徳期(1688‐1716)までは小規模網漁であった。…

※「九十九里浜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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