朝日日本歴史人物事典 「鶴賀若狭掾(初代)」の解説
鶴賀若狭掾(初代)
生年:享保2(1717)
江戸中期の豊後節の太夫。宮古路豊後掾 の門弟宮古路加賀太夫(初代)の高弟で,初名加賀八,のちに敦賀太夫と称する。延享1(1744)年から師と共に,江戸三座に出演。3年に加賀太夫が富士松薩摩掾と改名したときに,師と共に富士松姓に変わった。宝暦1(1751)年に独立。朝日若狭掾と名を改め,江戸森田座に出演した。8年秋には鶴賀と改姓,ここに新内節鶴賀本家の歴史が始まるのだが,若狭掾はこのとき森田座に出演したのを最後に,劇場上演記録から姿を消してしまう。座敷浄瑠璃としての新内節(当時まだこの呼称はなかったが)の新作を生み出すことに励む一方,狂歌師大木戸黒牛として晩年を送った。現在の新内節の代表曲は,この若狭掾の手によるものが多い。「明烏」「蘭蝶」「お駒」なども若狭掾の作品だといわれている。<参考文献>竹内道敬「鶴賀若狭掾研究」(『国立音楽大学研究紀要』第26集)
(根岸正海)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報