鳥栖村(読み)とりのすむら

日本歴史地名大系 「鳥栖村」の解説

鳥栖村
とりのすむら

[現在地名]西合志町野々島ののしま

合志こうし台地の西に位置し、北は上生わぶ村に接する。南北朝時代の戦場となった鳥栖原とりのすばる古戦場があり、建武三年(一三三六)四月一七日、一色範氏の軍勢が「鳥栖原」に攻め入り、菊池武敏との間で合戦が行われた(年未詳「小代光信軍忠状」詫摩文書)。天正九年(一五八一)一二月一日の合志親為寄進状写(厳照寺文書)に「合志郡之内鳥栖村」とみえ、合志親為は当村内「壱町 五郎丸名之内」を竹迫たかば山王社(現合志町)に寄進している。慶長一三年(一六〇八)検地帳によれば、当村は鳥栖本村・つじ村・灰塚はいづか村・ひがし村・北小路きたこうじ村からなっている。鳥栖本村の戸数三〇・人数七九、田二八町五畝余・畠八五町一反余。辻村の戸数二九・人数六八、田二四町七反八畝余・畠六八町一反三畝余。灰塚村の戸数七・人数二二、田八町九反九畝余・畠一五町七反九畝余。東村の戸数一三・人数四三、田九町四反六畝余・畠四三町六反二畝余。北小路村の戸数二〇・人数四八、田一四町三反五畝余・畠五七町二反三畝余。

鳥栖村
とりのすむら

[現在地名]鉾田町鳥栖

ともえ川北岸の丘陵上にあり、西は富田とみた村。天福二年(一二三四)一〇月二一日の烟田秀幹譲状(烟田文書)に「富田鳥栖堺東限□木沢流塔麻河限、北限勾沼、西曾利大佐古水口大道限」とある。宝治元年(一二四七)一一月二四日の烟田朝秀譲状(同文書)には「常陸国鹿嶋郡徳宿郷内、嫡男幹泰所 烟田・鳥栖・富田・大和田」とみえ、鎌倉初期には烟田氏の所領下に置かれた。

鳥栖村
とすむら

[現在地名]鳥栖市本鳥栖町ほんどすまち京町きようまち

大木だいぎ川に沿う低位段丘に立地する。近世の長崎街道は村の北限を通る。「肥前風土記」に「鳥樔郷」、「和名抄」の養父やぶ郡の郷名に「鳥栖」、正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)に「鳥栖庄」、文禄四年(一五九五)の検地帳写(基養精細録)に「鳥巣村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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