屋代村(読み)やしろむら

日本歴史地名大系 「屋代村」の解説

屋代村
やしろむら

[現在地名]大島町大字東屋代ひがしやしろ・大字西屋代にしやしろ

屋代島西部のほぼ中央に位置する。嘉納かのう山・源明げんめい山より流れ出る屋代川の両岸に集落が点在する。東は久賀くか(現久賀町)安下庄あげのしよう(現橘町)、南はあき出井いずい戸田へた横見よこみ、西は日見ひみ志佐しさ小松こまつ、北は三蒲みがまの各村と接し、屋代島内各村のうちただ一つ海に面さない村である。

和名抄」に記される屋代郷の地で、治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(九条家文書)に「すわうやし路」とみえ、古代―中世を通じて荘園とされた地域で、慶長一五年(一六一〇)検地帳にも「屋代庄」と記される。「地下上申」では「屋代小松村」と記され、「注進案」で小松村が分離し屋代村一村で記される。

屋代村
やしろむら

[現在地名]更埴市屋代町

東は雨宮あめのみや村・もり村・西は粟佐あわさ村・南は小島おじま村、北は千曲川を挟んで更級さらしな横田よこた(現長野市篠ノ井横田)に接する。「和名抄」に「屋代」とあるのが初見。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳には「矢代村」とあり、その後の文書は矢代村となっている。熊谷家文書によれば、屋代直経が子の屋代乙王に「倉科庄東条内の田地」を譲渡したことがみえる。

<資料は省略されています>

なお承久三年(一二二一)六月、北条泰時に従って屋代兵衛尉が宇治川の合戦において負傷したことが「吾妻鏡」にみえて、鎌倉時代よりこの地は屋代氏の支配するところであった。諏訪御符礼之古書によれば、寛正二年(一四六一)七月御射山祭の頭役を屋代源仲が務めているし、同六年の御射山祭には屋代左馬助信仲が頭役を務めた。

屋代村
やしろむら

[現在地名]五日市町屋代

三宅みやけ村の南に位置する。西北に高い山がそびえ、東南に開けた平地に集落が展開する。慶長六年(一六〇一)五月九日付の厳島社領高辻物成覚(野坂文書)に「やしろ」とみえる。毛利氏時代の社領を付立てた元和五年(一六一九)七月一三日付の厳島社社家供僧内侍三方給地等付立(厳島野坂文書)には「八代村」とみえ、一二二石余が厳島神社領であった。

元和五年の安芸国知行帳では高二三〇石。「国郡志下調書出帳」によれば、寛文四年(一六六四)の地詰により田一五町二反余で分米二一五・七五四石、畑二町一反余で分米一三・三石、屋敷七畝余で分米一・一七石、合わせて畝数一七町五反余、高二三〇石余となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報