高田寺跡(読み)たかたじあと

日本歴史地名大系 「高田寺跡」の解説

高田寺跡
たかたじあと

[現在地名]仁多町高田

「出雲国風土記」にみえる仁多郡郡司大領蝮部臣の祖父建立したと伝える。当寺のあった三所みところ郷の地頭は一三世紀初め頃には三所氏であり(「石清水八幡宮雑掌祐範申状」蓬左文庫蔵「斉民要術」紙背文書)、この頃には大領だいりよう神社・高田寺は存在していたとみてよい。その所在地は高田の内(旧高田小学校北方)と考えられる。「続古今和歌集」の撰者の一人である藤原光俊和歌短冊が高田寺に届いている。

高田寺跡
たかだでらあと

奈良県桜井市高田にあったとされる古代寺院。「続日本紀」天平宝字七年(七六三)一〇月二八日条に「前監物主典従七位上高田登足人之祖父嘗任美濃国主稲、属壬申兵乱、以私馬奉皇駕申美濃尾張国、天武天皇嘉之、賜封戸伝于子、至是坐殺高田寺僧、下獄奪封」とみえ、高田登一族を檀越とする寺であったと考えられる。また「七大寺巡礼私記」に、奈良唐招提寺講堂の本尊金銅弥勒三尊像について「寛仁二年七月或人巡礼記云、開講堂拝見之剋、有僧告、此弥勒三尊本高田寺仏也、其脇侍大妙相菩薩、昔為盗人被融解之時、此像高声叫云、痛哉、盗人捨去了、右臂天衣等以木(作力)続之(中略)、而高田寺破(壊力)之後、所奉移此堂也、今是像也」とあり、すでに平安中期には高田寺は廃寺となり、その仏像が唐招提寺に移されていたことがわかる。

高田寺跡
たかだでらあと

[現在地名]白山町川口 瀬古

現在の瀬古せこ公民館の地で、同館に本尊薬師如来像(鎌倉後期)と観世音菩薩像が安置される。寛文七年(一六六七)の紀州領寺改帳(「白山町文化誌」所収)には松坂の浄土宗清光せいこう末寺として、「惣庵弟子無御座候」と記され、境内にあった正応五年(一二九二)建立の十三重石塔とその基壇出土の水晶製五輪塔(高さ四九ミリ)はいずれも鎌倉時代にさかのぼるもので、草創もそれ以前と推測される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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