高山(市)(読み)たかやま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「高山(市)」の意味・わかりやすい解説

高山(市)
たかやま

岐阜県北部、飛騨(ひだ)地方の中心都市。市街地は高山盆地にあって、「小京都」ともよばれ、古くからのおもかげを残している。1936年(昭和11)高山町が大名田(おおなだ)町を合併して市制施行。1943年には上枝(ほずえ)村、1955年大八賀(おおはちが)村を編入。さらに、2005年(平成17)久々野(くぐの)、国府の2町、丹生川(にゅうかわ)、清見(きよみ)、荘川(しょうかわ)、宮、朝日高根(たかね)、上宝(かみたから)の7村を編入。その結果、面積は2177.61平方キロメートルとなり、それまでの15倍以上に拡大、香川県や大阪府より広い、全国最大の面積をもつ都市となった。

 高山には古く国分寺が置かれたが、高山が飛騨の中心となったのは、1585年(天正13)羽柴(豊臣(とよとみ))秀吉の命令によって、越前(えちぜん)大野城主の金森長近(かなもりながちか)が飛騨を平定して入封し、1590年頃いまの城山公園(天神山)で高山城の建設に着手してからである。以後、十数年にわたって、その北麓(ほくろく)の高台などに侍屋敷を設け、東山山麓に多くの神社・寺院を配置し、宮川の東岸には一之町、二之町、三之町などの町人屋敷をつくり、町の繁栄が図られた。なお、1692年(元禄5)飛騨は幕府の直轄地となり、高山には陣屋が置かれた。こうして江戸時代を通じ、京都・江戸両文化の影響によって、高山町民の生活に独特な伝統文化が形成されてきた。その後の高山の画期的な発展は、1934年(昭和9)秋の高山本線の開通後に目覚ましい。一方、国道も改良整備され、国道41号、156号、158号、257号、361号、471号、472号が通じる。さらに東海北陸自動車道が市域西部を縦断し、市街とは高山清見道路(中部縦貫自動車道の一部)で連絡している。

 高山の市街地は、いまでは盆地および周辺の丘陵地などまで拡大発展しているが、三町(さんまち)地区などでは古い町並みの保存が図られ、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 高山では、江戸時代からの春慶塗(しゅんけいぬり)、一位一刀彫(国の伝統的工芸品に指定)、渋草(しぶくさ)焼などの伝統工芸が行われている。また、飛騨のブナ材などの森林資源の利用によって曲木(まげき)家具製造が盛んである。近年は、新しい工業の発展が図られ、電気機械器具の出荷額の伸びが目だつ。一方、農村部では米作をはじめ、高冷地野菜やモモ(飛騨桃)栽培のほか、和牛(飛騨牛)の肥育が盛ん。また森林資源にめぐまれ、製材や木材加工が行われている。伝統の年中行事の一つ高山祭の屋台は国の重要有形民俗文化財に、「高山祭の屋台行事」は同重要無形民俗文化財に指定されており、毎年4月の日枝(ひえ)神社の山王祭、10月の桜山八幡(はちまん)宮の八幡祭には多くの観光客が集まる。両祭の屋台行事は、ユネスコの無形文化遺産にも登録された。ほかに見学の対象として、飛騨国分寺、春慶会館、日下部(くさかべ)民藝館、吉島(よしじま)家住宅、高山祭屋台会館、三町筋、飛騨高山まちの博物館、平田記念館、高山陣屋、城山公園、高山別院照蓮(しょうれん)寺、飛騨民俗村・飛騨の里などがあげられる。そのほか、市の北東部の奥飛騨温泉郷、丹生川地区の五色ヶ原、高根地区の野麦峠、朝日地区の鈴蘭(すずらん)高原と秋神温泉、久々野地区の舟山高原、国府地区の宇津江四十八滝など、各地に自然を生かした観光地があり、スキー場、ゴルフ場なども多く設置されている。人口8万4419(2020)。

[上島正徳]

『『高山市史』全3巻(1981~1983・高山市)』


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