駒込村(読み)こまごめむら

日本歴史地名大系 「駒込村」の解説

駒込村
こまごめむら

[現在地名]旭市駒込

大塚原おおつかはら村の北東に駒込本村があり、九十九里浜には神宮寺じんぐうじ浜と吉崎よしざき(現八日市場市)の間に飛地の駒込浜がある。村の東をしん川が流れる。寛永一一年(一六三四)旗本小林領、同一六年から同中村領になったとされるが、椿つばき海の開発に伴い寛文一〇年(一六七〇)幕府領となる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一五七石余。

駒込村
こまごめむら

[現在地名]いわき市四倉町駒込よつくらまちこまごめ

仁井田にいだ川上流に位置し、南は上柳生かみやぎゆう村・下柳生村、東は薬王寺やくおうじ村、北は山小屋やまごや村・八茎やぐき村。磐城郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録にこまこめ村とあり、高三三二石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では駒籠村とあり、高四八四石余。正保郷帳では田方三四一石余・畑方一四二石余。元禄郷帳では駒込村は高五〇七石余、清風野せいふうの新田は高一一七石余。

駒込村
こまごめむら

[現在地名]大網白里町駒込・みやこ

永田ながた村の北に位置し、土気とけ往還が通る。応永二六年(一四一九)一二月一七日の鎌倉公方足利持氏御教書(円覚寺文書)に鎌倉円覚寺領として「土気郡堀代郷駒込・赤荻両村」がみえる。堀代ほりしろ郷は地理的条件から長生ちようせい丘陵の東端部にあたる小中こなか・駒込を含む一帯と推定される。駒込には小字殿谷とのさくがあり、上総国に多くみられる、小丘陵で三方を囲まれた谷部に館を設ける谷戸式館があったと思われる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八九二石。

駒込村
こまごめむら

[現在地名]市原市駒込

久保くぼ村の南西に位置し、養老ようろう川が流れる。天正一九年(一五九一)九月の佐是郡あねさき領川田郷駒込村検地帳(駒込区有文書)では田畠屋敷一九町四反余・二〇三石余で、一筆は地字・面積(縦横の間数)・地目・反別・分米・名請人(分付主と作人)の順で記載され、名請人には来福らいふく寺・定光じようこう寺・法光ほうこう寺のほか天王免禰宜分・観音免・阿弥陀免などを含み、分付主二〇人(うち屋敷持一四人)のうち一町以上は七人、五反以下は一九人、作人六〇人(うち屋敷持一四人)のうち一町以上は一人、五反以下は四七人。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報