馮玉祥(読み)フウギョクショウ

デジタル大辞泉 「馮玉祥」の意味・読み・例文・類語

ふう‐ぎょくしょう〔‐ギヨクシヤウ〕【馮玉祥】

[1882~1948]中国の軍人・政治家国民党に入り北伐に参加。反蒋介石運動を起こし除名された。抗日戦争中は復党。1946年に米国で反蒋を声明。帰途、事故死。夫人は李徳全ひょうぎょくしょう。フォン=ユイシアン。

ひょう‐ぎょくしょう〔‐ギヨクシヤウ〕【馮玉祥】

ふうぎょくしょう(馮玉祥)

フォン‐ユイシアン【馮玉祥】

ふうぎょくしょう(馮玉祥)

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精選版 日本国語大辞典 「馮玉祥」の意味・読み・例文・類語

ふう‐ぎょくしょう ‥ギョクシャウ【馮玉祥】

中国の軍人、政治家。安徽省巣県の人。一九二一年河南督軍となり、初め直隷派に属したが、二四年奉天派に転じて北京を占領、国民軍総司令として勢力をふるった。二六年国民党に入党、蒋介石の北伐に応じ奉天軍と戦ったが、のちに反蒋活動を起こして失敗クリスチャン=ゼネラルとよばれ、夫人は李徳全。(一八八二‐一九四八

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百科事典マイペディア 「馮玉祥」の意味・わかりやすい解説

馮玉祥【ふうぎょくしょう】

中国,国民政府軍閥政治家。安徽省の人。キリスト教徒であったので,クリスチャン・ゼネラルと呼ばれた。西北軍閥(北洋軍閥)の首領で,政権欲が強く,各派の間を泳いだが,1924年第2次奉直戦争では北京を占領,国民総司令となる。1926年モスクワへ行き,帰国後中国国民党に入党。北伐に参加したが,蒋介石と反目し,しばしば反蒋運動を起こした。1946年ヨーロッパに遊んだが,帰国中事故死。夫人は李徳全
→関連項目南漢宸馬鴻逵溥儀

馮玉祥【ひょうぎょくしょう】

馮(ふう)玉祥

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改訂新版 世界大百科事典 「馮玉祥」の意味・わかりやすい解説

馮玉祥 (ふうぎょくしょう)
Féng Yù xiáng
生没年:1882-1948

中国の軍閥。字は煥章。安徽省巣県の人。貧農の家に生まれたが,苦学力行してついには一時最高権力を手中にした。辛亥革命時,大隊長だった彼は革命軍に呼応せんとして失敗,妻の養父に助けられたが,民国時代に順調に勢力をのばし,1924年の第2次奉直戦後には国民軍総司令となって北京をおさえた。馮玉祥の力の源泉は,軍閥の常としての権謀に加えて,兵士の信頼と時流に対する敏感さにあった。彼は部下と同じ生活をして団結をかため,帝制,復辟,武力統一に反対したばかりでなく,清朝の廃帝を紫禁城から追放して辛亥革命にひとつの結末をつけたのである。また,ソ連と結び,国民革命に呼応したが,国民政府時代にはほぼ反蔣介石の立場にたった。抗日戦後に訪米して反蔣の旗幟を鮮明にしたが,48年9月,ソ連船中で火災にあい焼死した。馮玉祥はクリスチャン・ゼネラルとしても有名。後妻の李徳全は解放後,中国紅十字会会長等の要職についた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「馮玉祥」の意味・わかりやすい解説

馮玉祥
ふうぎょくしょう
Feng Yu-xiang

[生]光緒8(1882).11.6. 安徽
[没]1948.9.1. 黒海
中国の軍閥,政治家。「ひょうぎょくしょう」とも読む。キリスト教信者だったので,クリスチャン・ゼネラルとも呼ばれた。清末に保定武備学堂を卒業し,最初は安徽派,次に直隷派に属し,1922年河南督軍に任命された。 24年第2次奉直戦争で直隷派の呉佩孚に対してクーデター (北京政変) を起して直隷派を離脱し,国民軍を組織してみずから国民軍第1軍司令兼全軍総司令になり,国民党との提携を強めてソ連の援助を受けた。西北から華北に進出して奉天派打倒をはかったが,奉天派と直隷派に挟撃されて失敗し,26年下野を声明してモスクワに亡命。帰国後国民党に入党。西北国民軍総司令として北伐に協力し,29~30年汪兆銘,閻錫山らとともに反蒋運動を起したが失敗して国民党から除名された。 31年の満州事変勃発後,国民党に復帰。抗日戦争中は連ソ抗日,戦後は内戦反対を主張し,46年渡米して反蒋声明を発表した。 48年9月の新政治協商会議に出席するためソ連経由で帰国の途中,黒海上の船中で原因不明の火災により死亡した。

馮玉祥
ひょうぎょくしょう

馮玉祥」のページをご覧ください。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「馮玉祥」の解説

馮玉祥 ふう-ぎょくしょう

1882-1948 中国の軍人,政治家。
光緒8年9月26日生まれ。西北軍閥の首領であったが,1926年国民党にはいり,北伐に協力,のち蒋介石と対立。日中戦争中は抗日を主張した。戦後,外遊先のアメリカで国共内戦反対,反蒋介石の声明を発表。帰国途中の1948年9月1日乗船の火災により死去。67歳。クリスチャン-ゼネラルとよばれた。夫人は李徳全。安徽(あんき)省出身。字(あざな)は煥章(かんしょう)。姓は「ひょう」ともよむ。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「馮玉祥」の解説

馮玉祥(ふうぎょくしょう)
Feng Yuxiang

1882~1948

中国の軍人。安徽(あんき)省巣県の人。旧西北軍閥の首脳で,初め他の軍閥と関係を持ったが,国民党に入り北伐に加担した。のち蒋介石(しょうかいせき)反対運動を行い,48年アメリカから帰国する船が火災にあい,事故死した。クリスチャン・ジェネラルと呼ばれた。

馮玉祥(ひょうぎょくしょう)

馮玉祥(ふうぎょくしょう)

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世界大百科事典(旧版)内の馮玉祥の言及

【軍閥】より

…同年末の張学良の〈易幟(えきし)〉によって蔣介石による全国統一が完成するが,それは国民党の新軍閥化とむすびついていたのであって,南京国民政府は非北洋系軍閥の寄合所帯となったのである。西北の馮玉祥,山西の閻錫山(えんしやくざん),広西の李宗仁,広東の李済深がそれで,彼らは1929‐31年にかけて反蔣戦争を発動し,広東独立をおこなった。英米が蔣介石をおしたのに対し,反蔣派は日本にちかづいた。…

【中華民国】より

…ついで22年4月,直・奉両派が争って直隷派が勝利したが(第1次奉直戦争),やがて24年9月,奉天派がふたたび戦争をしかけて直隷派の支配をくつがえした(第2次奉直戦争)。奉天派の勝利は日本の後援,安徽派および南方勢力との同盟あってのことであったが,とりわけ勝利の決定的要素となったのは直隷派の驍将(ぎようしよう)馮玉祥(ふうぎよくしよう)の寝返りであった。反旗をひるがえした馮玉祥は北京を制圧して大総統曹錕(そうこん)を幽閉するとともに,清朝の皇族を紫禁城から追放した。…

【北伐】より

…第1回(1922年2月~6月)は桂林(のち韶関)に大本営をおき,湖南・江西に兵をすすめたが,吉安をおとしたところで陳炯明(ちんけいめい)のクーデタが起こり失敗に終わった。第2回(1924年9月~11月)は韶関に大本営をおき,4万~5万の兵(建国軍)を率いて江西に出たが,馮玉祥(ふうぎよくしよう)の北京政変で直隷派が政権をおわれたため中断された。孫文はこの局面を〈国民革命の新時代〉ととらえ,北方に対して国民会議による統一をよびかけるにいたる。…

【李徳全】より

…河北省出身。牧師の娘に生まれ,1925年西北軍閥の頭領でクリスチャン・ゼネラルと呼ばれた馮玉祥(ふうぎよくしよう)と結婚,抗日戦中は重慶で婦女慰労総会を指導。49年中華人民共和国成立とともに民主人士として国務院衛生部長(衛生相)に任ぜられ,中国紅十字会会長を兼任。…

※「馮玉祥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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