馬門村(読み)まかどむら

日本歴史地名大系 「馬門村」の解説

馬門村
まかどむら

[現在地名]野辺地町 馬門・家ノ上いえのうえ鳥居平とりいたいらなど

通称馬門。烏帽子えぼし岳を南西に負い、野辺地湾に面する海岸に並行して村内を奥州街道が通る。東は野辺地村、南は甲地かつち(現東北町)、西は弘前藩黒石領狩場沢かりばさわ(現東津軽郡平内町)に接する。寛永元年(一六二四)八月の御家被仰出に次のようにあり、藩では当村を開発し、漁業を振興するために積極的な保護政策をとっている。

<資料は省略されています>

また雑書の慶安三年(一六五〇)五月二三日条には「馬門御町四日市相立候様ニと当春八戸御鷹場ニおいて代官助右衛門ニ被仰付趣、此上不立候ニ付ハ追言上次第近郷へ銭おろし可被仰付由御諚之由、舟越伊助申上ニ付て、百文五戸、五十文七戸、百五十文野辺地、百文横浜、五十文田名部へ相渡、毎市一人一文宛持参助右衛門ニ相渡候様ニと伊助ニ渡」とあり、四日の市立てが行われたが、振るわず市勢圏の野辺地などで振銭が行われた。弘前藩との藩境に位置する村であったため、街道筋には境目番所が設けられて通行人や出入物資の取締に当たった。

馬門村
まかどむら

[現在地名]茂木町馬門・塩田しおた

飯野いいの村の南に位置し、中央部を那珂川支流のさか川が南東流する。文和二年(一三五三)六月一〇日の明阿茂木知貞譲状(写、茂木文書)以下、代々の同氏の譲状にみえ、茂木保東方の一つとして茂木氏に伝領された。文明一四年(一四八二)一一月日の茂木家臣給分注文(同文書)には「馬門」や「馬門宮之内」がみえ、「(赤上) 」の「九貫三百六十文馬 」とあるのも馬門のことと思われる。

近世はおおむね常陸谷田部藩領。慶安郷帳では田方三〇七石余・畑方三三一石余。

馬門村
まかどむら

[現在地名]佐野市馬門町・茂呂山町もろやまちよう北茂呂町きたもろちよう若宮上町わかみやかみちよう若宮下町わかみやしもちよう

佐野川沿いに位置し、渡良瀬川が南を限る。東は越名こえな村・高山たかやま村・馬門河岸がある。応永三二年(一四二五)三月日の藤原某等連署打渡状(健田須賀神社文書)によれば「馬門宮」の笛吹免が藤原某らから六郎大夫に渡され、永享六年(一四三四)の宗貞充行状(同文書)では「馬門郷浅田宮」の笛吹免として畠五反が六郎大夫に与えられている。馬門宮・馬門郷浅田宮とは現在の浅田あさだ神社であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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