馬越村(読み)まごえむら

日本歴史地名大系 「馬越村」の解説

馬越村
まごえむら

[現在地名]八千穂村大字馬越

白駒池しらこまのいけ付近に発して北東流してきた大石おおいし川が、石堂いしどう川を合わせて大きく東に屈曲して千曲川に流入する、その屈曲部の内側に位置し、比高約五〇メートル、標高八七〇メートルで、大石川対岸、西北方の八郡やこおり(現八千穂村)とほぼ同一の段丘面をなす。

東は段丘崖をもって本間村に、西は大石川を境に八郡村と相対し、南は八ヵ村入会の本間ほんま山に接し、北は大石川を境に上畑かみはた(現八千穂村)と相対する。

天正一四年(一五八六)信州佐久郡之内貫之御帳には「四貫 馬越」とある。元禄一五年(一七〇二)信濃十郡高付帳では二七石五斗九升六合。

馬越村
まごせむら

[現在地名]上田市大字浦野うらの字馬越

上田市西部を東流する浦野川の中流左岸にある村。入馬越いりまごせ中馬越なかまごせ・浦野・出浦町でうらちようなどの小字がある。

この地方は中世から浦野庄馬越村といっていた。天正六年(一五七八)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)の「四之御柱 小県郡浦野庄」の項に「孫瀬(馬越)仁貫文」とあるのを初見とし、翌七年の同帳にも「孫瀬分正物仁貫百文」とみえる。真田氏支配最初の貫高帳(大井文書)には「三百六貫百七十八文 馬越」とあり、また、仙石氏の支配下に入ってからの上田領高石帳(仙石文書)には「三百六貫百七十八文 高七百五拾六石弐斗五升、馬越村」と記されている。

馬越村
うまごえむら

[現在地名]今治市馬越・馬越町一―三丁目・山路やまじ町一丁目

天保郷帳には村名がみえない。古くは日吉ひよし村と一村であったが、慶長年中(一五九六―一六一五)に分村した(明治一三年「伊予国越智郡地誌」)。今治平野の中央に位置し、鯨眠げいみん山の周辺に広がるほぼ正方形の村。東は日吉村、南と西は片山かたやま村、北は山路村に囲まれる。田はやや低湿であるが肥沃で、日吉川・あさ川ほか数条の川・溝が流れて灌漑の便もよく、交通も便利である。

馬越村
うまごえむら

[現在地名]土庄町馬越

屋形崎やかたざき村の西にある小海おみ郷枝村。延宝五年(一六七七)網廻船運上積帳(足守木下家文書)には当村の烏賊手繰網二帖を記す。宝暦明細帳では高一二〇石余・反別二四町六反余(田一町四反余・畑二三町二反余)、船数九(八〇―一五石積)、塩浜数四・塩浜役八俵、家数六六・人数二九五、牛二二。「小豆郡誌」によれば島四国巡拝の旅人がこの村で石炭鉱を発見、九州や備前・阿波方面から採炭者が集まり、小規模の採掘をした。

馬越村
まこしむら

[現在地名]会津本郷町穂馬ほま

阿賀川左岸にあり、西は山で穂谷沢ほやざわ村、南は中山なかやま峠を越えて小谷おや(現会津若松市)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に満越とあり、高四六石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高五九石余。化政期の家数一〇(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一〇・人数七一(人員録)。同八年穂谷沢村と合併して穂馬村となる。

馬越村
まごしむら

[現在地名]八代市日奈久馬越ひなぐまごし

下塩屋しもしおや村の南西に位置する海辺の村。寛永一二年(一六三五)の御国中地侍御郡筒之御帳(「藻塩草」県立図書館蔵)によると、日奈久馬越口に郡筒二〇人がいた。元文(一七三六―四一)頃の「肥集録」に日奈久村の小村と記されている。「国誌」は「高六十九石余海辺也」とする。葦北あしきた郡田浦手永に属した。宝暦(一七五一―六四)頃の肥後国中寺社御家人名附では日奈久村懸りの村。

馬越村
まごしむら

[現在地名]豊橋市石巻本いしまきほん

別所べつしよ街道に沿う赤石あかいし山脈麓の村。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は九四石余、うち法蓮寺領四石である。

三河国二葉松」に馬越村古城として、永享―寛正(一四二九―六六)の頃に為守右馬允・同藤馬允の居住を伝える。素盞嗚すさのお神社の永享九年・寛正三年(一四六二)銘の棟札には、為守右馬尉の名がみえる。

馬越村
まごしむら

[現在地名]与板町馬越

本与板もとよいた村の北、三島みしま丘陵が東にせり出した麓にある。元和六年(一六二〇)長岡藩領となり幕末に至る。同年の長岡藩知行目録に高一五九石八斗余がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報