館村(読み)たてむら

日本歴史地名大系 「館村」の解説

館村
たてむら

[現在地名]志木市柏町かしわちよう一―六丁目・幸町さいわいちよう一―四丁目・館一―二丁目・本町ほんちよう一―六丁目

北東流する柳瀬やなせ川の右岸、同川と黒目くろめ川に挟まれた武蔵野台地縁に位置する。新座にいくら野方のがた領に属した(風土記稿)。北東端で柳瀬川は新河岸川に合流しており、同川対岸は入間いるま宗岡むねおか村、東は宮戸みやど(現朝霞市)、南は大和田おおわだ(現新座市)など。野火止のびどめ用水が南東を北へ流れる。文明一八年(一四八六)聖護院道興が滞在した大塚の十玉おおつかのじゆうぎよく坊や大石信濃守顕重の館(柏の城か)は当地にあったとみられる(廻国雑記)。享保一四年(一七二九)成立の館村旧記(宮原家文書)によると、上杉謙信によって柏城が落されたといわれる永禄四年(一五六一)以降、城下の武士・百姓などは離散した。だがやがてこの地に戻り、「芝分」と称される館村本村の一七軒・六七名が中心となって開発が進められ、近世初期には館村本村およびはり(現富士見市)引又ひきまた中野なかのの三組が成立したという。中野は西方柳瀬川寄り、引又は東部新河岸川寄りにある。北西の針ヶ谷は元禄年間(一六八八―一七〇四)までに分村した(風土記稿)。寛政六年(一七九四)の館村御地頭附(宮原家文書)によれば、天正一八年(一五九〇)徳川家康の関東入国後は関東五山の長老である福山月斎が当地に陣屋を構えたと伝え、翌一九年の検地では高六三七石。元和年間(一六一五―二四)に下野宇都宮城主本多正純領となり、同九年には幕府領と旗本山中与五兵衛(館村本村)・同新見七右衛門(引又)・同大河内兵左衛門(中野)の相給となったという。

館村
たてむら

[現在地名]本荘市石沢いしざわ

石沢川中流域の平野部に位置し、東は鳥田目とりため村・柳生やぎゆう村、西は雪車町そりまち村・烏川からすかわ村、南は鮎瀬あゆせ村、北は湯沢ゆざわ村と接する。

室町―戦国期に由利十二頭の一人石沢治助の居館があり、この地を支配したという。元和九年(一六二三)本荘藩の支配下に入り、石沢郷の中心的な村であった。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)には館村の名はなく、明治五年(一八七二)に合併する栗山くりやま村だけがみえる。館村は元和一〇年の「本田御検地帳 田方」(石沢郷土誌)に村名がみえる。

元禄一一年(一六九八)の「六郷伊賀守拝地 石沢分」(同書)に「高五百六拾五石八斗四升四合 館前村 以前は楯村と申候」とあり、高は石沢郷中で最も多い。栗山・鮎上あゆがみ両村は独立して村高の記載がある。「本田御検地帳 田方」によれば田地持百姓は二九名とあり、これも石沢郷中で最も多い。

館村
たちむら

[現在地名]辰口町館

金剛寺こんごうじ村の西、能美丘陵中央部に位置し、北東から南西へと鍋谷なべたに川支流のおお(館谷川)が貫流する。西は寺畠てらばたけ村・和気わけ村。地名は和気村境にある虚空蔵山こくぞうやま城のヤカタ(館)に由来するといわれ、河田こうだ(現小松市)に対して山ノタチとよばれてきたという(辰口町史)。集落は上館(上村)と下館(下村)の二つの垣内に分れる。江戸時代を通じて加賀藩領であったが、寛永一六年(一六三九)から万治二年(一六五九)までは富山藩領。正保郷帳では高一五〇石余、田方五町三反余・畑方三町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば高一五一石、免四ツ三歩、小物成は山役二四八匁・漆役七匁(三箇国高物成帳)

館村
たてむら

[現在地名]黒川村下館しもたて塩谷しおだに

胎内たいない川扇状地の頂部にあり、南には西流する胎内川を隔てて鳥坂とつさか山が起立する。北は枝郷の塩谷、西は黒川町に接する。中世には奥山おくやまきた条の黒川の内に含まれていたとされる。村名は三浦和田氏の一族黒川氏の居館があったことに由来するという。古くは山黒川やまくろかわと称したが、村上藩領となって以後館村とよばれるようになったとも伝える。枝郷の塩谷は元徳三年(一三三一)六月五日の海老名忠顕和与状(三浦和田氏文書)に地名がみえ、忠顕と和田(黒川)茂実の和与の際、山上やまがみ江波多えばた(江端)両村の東境に設定されている。

館村
たてむら

[現在地名]八王子市館町

湯殿ゆどの川と殿入とのいり川の流域に立地。西と北を下椚田しもくぬぎだ村、南東は寺田てらだ村と接する。田園簿に館村とみえ、田四一石余・畑一五一石余で幕府領。寛文六年(一六六六)の柚井領館村検地帳(黒沢家文書)が残る。元禄郷帳では舘村として高四八二石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では幕府領三〇九石余、旗本久松領一五七石余。「風土記稿」では三卿の田安領と久松領で、民家一〇〇余、小名は古歌場こかば四谷よつや和田わだ日向田中ひなたたなか日影田中ひかげたなか・殿入、高札場は村の中央四谷に置かれた(風土記稿)

館村
たちむら

[現在地名]志賀町館

福井ふくい村の東にあり、於古おこ川が貫流。左岸に本名ほんな、右岸に貝屋かいやの集落がある。もとは二町ほど離れた山の根にあって山岸やまぎし村と称していたが、中世の土豪土田氏没落後、その居館跡へ移住して館村と改称したという(「穴口村旧記」穴口区有文書)。氏神春日神社蔵の享和元年(一八〇一)造替棟札には「本名村と申来りしに就中より所以阿りて館村とは改」とある。

館村
たてむら

[現在地名]檜山郡厚沢部町館町・南館町みなみたてまち・字社の山しやのやま・字新栄しんえい・字中館なかたて・字富里とみさと・字須賀すが・字城丘しろおか・字当路とうろ

近世から明治三九年(一九〇六)までの村。土橋つちはし村の東、うずら村の南に位置し、集落は厚沢部川中流域の厚沢部沢最奥に成立。当村は享保四年(一七一九)目名めな村からの移住者が檜山稼と農業に従事したのに始まるという(明治一九年「青江理事官諮問回答書」市立函館図書館蔵)。「蝦夷日誌」(二編)に館村とみえ、「むかし此村ニ酋長壱人居住せし由申伝ふ。此村当沢の第一番奥なる村也。惣而稼方前ニも云如く柾割、角引、炭焼等致し其余ハ畑少々計作り、春は漁猟に出る也」とある。「廻浦日記」には「ウツラ」の左方に行くと「此辺土地余程開け畑多く、人家も沢山有るよし。

館村
たちむら

[現在地名]金沢市館町やかたまち館山町たてやままち

土清水つちしようず村の南東、浅野川中流西岸に位置する。南西はすえ村。地内に富樫晴貞四男大桑雅楽助晴光の居館金浦かなうら館の館跡があり、村名もこれに由来するという(加賀志徴)。正保郷帳では牛首うしくび村と併記され、両村合せて高三五三石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一〇五石・免五ツ七歩で、物成のうち八石は翌年三月の米納、四石余は同六月の銀納になっていた。ほかに山役七七匁の小物成があった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数六・百姓数八(高免付給人帳)。天保一三年(一八四二)の村御印物成等書上帳によれば、寛文一〇年に一六石の検地引高、元文五年(一七四〇)に五斗の手上高があり、村高は八九石余になっていた。

館村
たてむら

[現在地名]新発田市上館かみだて

上・下両小松こまつ村の東北、なか村の南に位置し、上今泉かみいまいずみ(現北蒲原郡加治川村)の枝郷であった。佐々木加地氏の本拠地と伝え、その居館があった。東南方約二キロの加治かじ(要害山)には山城跡がある。近世ははじめ村上藩領で、延宝九年(一六八一)頃の高反別免割家数人数帳(寛政一二年写、新発田市史資料)によると三日市組に属し、高三五四石一斗余、免五ツ三分、田畑三一町三反余、家数一六、人数一二二。

館村
たてむら

[現在地名]郡山市湖南町館こなんまちたて

横沢よこさわ村の南、猪苗代湖南東岸の狭小な平地と後背山地に立地。当村の浜は湖南七浜の一。東境の三森さんもり峠越で多田野ただの村への道が抜ける。地名は中世安積伊東氏流の横沢氏の拠った館(横沢城)があったことに由来するという。戦国期同氏は蘆名氏に属していたが、天正一七年(一五八九)同氏が滅びると開城し伊達政宗に随身して仙台に移った。

館村
たちむら

[現在地名]門前町館

清水しみず村の南、はつヶ川中流南岸の山麓に立地。総持寺の門前にあたり、道下とうげ村方面からの参詣道に沿う。村名は地頭館があったことに由来するといい、集落の東方の一段高くなった一帯に古館ふるだち主館おもだち中館なかだち大門口おおもんぐちなどの地名が残り、さらに近くに内堀うちぼり的場まとば馬場ばばの地名も残る。正保郷帳では高七八石余、田方二町一反余・畑方三町一反余。承応三年(一六五四)の村御印でも同高、免五ツ四歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高九八石余、免六ツ三歩、小物成は山役五四匁・苦竹役一匁・漆役三匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)

館村
たちむら

[現在地名]松任市田地町たちまち

坊丸ぼうまる村南部の西、手取川扇状地扇央部の平地に位置し、北は乙丸おとまる村、西は菅波すがなみ村。慶長一二年(一六〇七)六月の中村用水普請人夫ニ付達書(松任町史)に「たち村」とみえる。正保郷帳によると高三五六石余、田方二二町二反余・畑方一町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三七〇石、免五ツ七歩、小物成は鳥役四目、ただし鷹場につき免除(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数八・百姓数九(高免付給人帳)。正徳三年(一七一三)当村百姓一名が、前年の金沢表への減免出訴をとがめられて所払となっている(改作所旧記)

館村
たてむら

[現在地名]喜多方市熊倉町都くまぐらまちみやこ

高柳たかやなぎ村の北東、大塩おおしお川の東岸、雄国おぐに山の西麓に位置する。西は大塩川を隔てて熊倉村。小沼組(古くは大塩組)に属し、本村の北に端村道地どうじ新田がある。同川の段丘上に沿って檜原ひばら峠越米沢街道が通る。地内には中世の館跡が五ヵ所あり、このことが村名の由来と思われる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に館とみえ、高三一一石余。寛文五年(一六六五)の「大塩組風土記」によると高三三一石余(うち新田一九石余)、免六ツ四分余、反別は田方一六町四反余・畑方九町六反余。綿役金二分・同銀八匁五分余、山役金二両一分・同銀一四匁四分、漆木役四一二本五分などを負担していた。

館村
たてむら

[現在地名]鰺ヶ沢町舞戸まいど

中村なかむら川右岸に沿って開け、北は舞戸村、南は中村に接する。村名は村の東にある舞戸館に由来すると思われる。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に高九四・八石とあり、同四年の検地帳には村高七二・八七二石、うち田方六九・九一石、畑方二・九六二石とある。元禄三年(一六九〇)には赤石組に属し、村位は上とある(平山日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報