革屋町(読み)かわやちよう

日本歴史地名大系 「革屋町」の解説

革屋町
かわやちよう

[現在地名]中区紙屋かみや町一丁目・本通ほんどおり

播磨屋はりまや町の西に続く山陽道沿いの横町で、城下中通組に属した。元和五年広島城下絵図に「革屋町」として町間数一町八間を記す。寛永二年広島町数家数改め(済美録)には本家二二軒・借家六六軒とあり、革細工する者が数多く居住したといわれる。承応切絵図にも革屋某という家が一五軒あり、総家数二八、間数合計一三一間二尺五寸の過半を占める。「知新集」には町門一、町間数二丁四七間一歩八厘六毛、竈数七四(本竈一六・借竈五八)、人数二七一(男一六二・女一〇九)、うち本道医・傘細工・指物師各二人、表具師・筆結・石工各一人を記し、さらに元治元年(一八六四)の御領分諸色有物帳(浅野長愛氏蔵)には檜物細工師として紙屋町在住の檜物師辻藤右衛門とともに当町の檜物屋理右衛門をあげる。

革屋町
かわやまち

[現在地名]大分市中央町ちゆうおうまち一―二丁目

きよう町の北に位置し、北の大工だいく町との境の通りを東に進むと中堀を渡って侍町の西口。慶長府内絵図に町名がみえ、東頬四一間・西頬三八間、東西の入一五間。寛保二年(一七四二)には酒造業者が一軒あり、宝暦三年(一七五三)営業を許可された商人のうちに穀物仲買一軒があった。明和八年(一七七一)にはミョウバン商友屋がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報