阿蘇惟忠(読み)あそ・これただ

朝日日本歴史人物事典 「阿蘇惟忠」の解説

阿蘇惟忠

没年:文明17.5(1485)
生年:応永22(1415)
室町時代の阿蘇大宮司。惟郷の子。永享3(1431)年,父の跡を継いで大宮司になり,益城郡矢部に居住。南北朝以来阿蘇氏は惟村系・惟武系のふたりの大宮司が対立していた。宝徳3(1451)年,惟忠は南郷大宮司惟兼の子惟歳を養嗣子に迎えて大宮司職および社領支配の統一を図るが,まもなくこれを罷免して自ら大宮司に復帰。さらに惟歳の子惟家を大宮司としたのちにも,これを廃して三たび就任する。そのため文明17(1485)年の幕の平合戦を招いたが,子惟憲が跡を継いだことで惟忠の願いはかなえられた。その一連の行動は大宮司分裂以来発言権を強めていた家臣団や守護菊池氏の介入を抑え,家督権と大宮司の地位確立を狙ったものと思われる。<参考文献>杉本尚雄『中世神社と社領』

(柳田快明)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿蘇惟忠」の解説

阿蘇惟忠 あそ-これただ

1415-1485 室町時代の武将,神職。
応永22年生まれ。阿蘇惟郷(これさと)の子。北朝系の阿蘇惟村の孫。阿蘇大宮司(だいぐうじ)。南朝系の阿蘇惟武の曾孫惟歳を養子にして対立を解消し,肥後(熊本県)阿蘇・益城(ましき)両郡を支配。のち跡つぎをめぐって惟歳やその子惟家と対立。子の惟憲を擁立しようとして文明17年幕の平合戦となり,その戦中に病死した。71歳。

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